仏教、上座部と大乗の和解
ブログ開始からずっと社会・経済システムの話をしてきたので、ここらで違うものを取り上げたいと思います。
「風が吹けば……」「わらしべ長者」の例もありますし、何が何を震わせるのかはわかりませんからね。
今回、考察するのは「仏教について」です。
仏教について調べた時、最初につまづくのが「大乗仏教」と「上座部仏教」のふたつの教え・考え方がある、という部分です。
ブッダの教えは二種類あるの?
当然、そのような疑問が浮かびますが、これはブッダの教え方のせいではなくて、受け取る側、受け継ぐ側の都合によるものかと思われます。教義よりも政治的なものが重要視されたこともあったでしょうし、「きっとこういうことに違いない」というような思い込みが反映されたこともあったでしょう。
簡単に整理すると
大乗仏教はユーラシア大陸の中央(現在の中国)あたりを東に伝わってきたもので北伝仏教とも呼ばれる。自分以外のすべての生き物をも含めた救いを為そうとする教え。
上座部仏教はユーラシア大陸南部及び島しょ部(東南アジア)あたりを東に伝わったもので南伝仏教とも呼ばれる。ブッダと同じように出家・修行し、悟りを目指そうとする教え。
といった感じになるでしょうか。
大乗は上座部を「自身の救済のみを目指す”小乗”なもの」とみなすことがあり、上座部は大乗を「ブッダが示した真の教えから逸脱している」とみなすことがある、とのこと。
このような状況を見たら、当の本人、ブッダはなんと言ったでしょう?
争いはやめよ。ブツぞ!
……コホン……
ブツぞ、で思い出しましたが、仏像←とかどうなんでしょう?
ブッダはそれを造ることを望んでいたのでしょうか?
……その判断は各人にまかせるとして……
大乗と上座部についての相異に関して
「上座部を極めた後、ある観点に基づけば自ずと大乗的になっていかざるを得ず、また、真の意味で大乗を為すためには上座部を極めていなければならない」
のではないのかな、と個人的には思っています。
始めにどちらの道を選んだとしても、結局、もう一方の道も通らないと目的の場所には辿り着けないという。
これは「机上の空論」ならぬ、「脳内の空論」なので、正鵠を射ているかはわかりませんが。
突然ですが、ここで写真を。
これは、インドのボードガヤー(ブッダガヤー:ブッダが悟りを得た地域)のマハーボーディ寺院です。
以前、訪れたのですが、さすが仏教の聖地だけあって、ものすごく心地よい場所でした。
何かの行事があったのか 、ものすごい数の僧が寺院の周りを囲んでいました。
見切れていますが、後ろにも横にもさらにたくさんの僧たちが静かに座しているのです。
これを見てハッとしたのは、ブッダが生きていた時も、このような光景が広がっていたのかもしれない、と感じたことからでした。
二千年以上前と同じ光景が今も続いている。
人間が感じることや思うことは、いつの時代も変わらない、ということなのかもしれませんね。
この樹の下でブッダが悟ったといわれる菩提樹です。実際は何世代か植え継いだものらしいのですが。
はい。
ちょっと神聖な気持ちになったところで←今回のブログは終わりとなりますナムナム。