「問題」についての考察・その1
今回と次回、2回に渡って「問題」に関して考察していこうかと思います。
今回のお題は「何を問題と考えるか?」です。
例として「インドのNo Problem問題」を採り挙げたいと思います。
インドへ旅に出たことがあるのですが、その前にインドに関する本やホームページ・ブログ等を読み漁りました。
そこで目についたのが「インド人の言うNo ProblemはまったくNo Problemじゃない!」といったような記述でした。
どういうことかというと、
「仕事の納期や交通機関の運行等に関する約束が破られ、説明を求めたら「No Problem」と平然と言われ激怒した」
といった内容が多いようでした。
本人にとっては、もの凄い問題が起きてるのに「No Problem」はないでしょう、ということだと思いますが、そもそも両者の「問題」の認識が異なっているために話が噛み合っていないのでは? と感じました。
確認したわけではないので、想像にしかすぎませんが、少しオカルトチックになることを承知で考察すると、
「問題」と捉えている側は、三次元上で起きている現象を対象としていて
「問題」と捉えていない側は、そういう表面上で展開されている現象とは別の状態を対象としている
のではないのかな、と思います。
簡潔に表せば、片方は形而下を、もう片方は形而上を見て「Problem」を扱っている、ということかもしれません。
それが事実だとすると、話が噛み合わないのは当たり前で、何も感情を高ぶらせる必要はなく、ただそう表明することを認める、ことしかできないのではないのかな、と感じます。
幸いなことに、自分が訪れた時はそういう煩わしいようなことは一切起こらなかったのですが(問題自体はたーくさん起こりました……)
インドで(もしくは他の地でも)No Problem問題に遭遇した際は「認識の違う世界が存在する」ということを学習するチャンスが来た、と感じると良いかもしれませんね。
そしてそれを如実に「確かにNo Problemだ」と感じることが出来るようになった時、あなたの世界から「問題」と呼べるようなものは消え去っていくことでしょう。
はい。
こういうことを書きつつ……
自分自身はまだまだ問題を感じまくっていたりして、説得力が足りてなかったりするのですが。
少し根拠の希薄な記事となりましたが、インドは霊性大国でもあり、たくさんの聖人やオリジナルな宗教が産み出されたことを考えると、あながち的外れでもないのかな、と想っています。