空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

行為が感情に基づく世界ではどのような変化も意味がない

 

政治や経済、さらにスポーツやエンターテイメント等、さまざまな活動を見ていて、

「いったい何がこれらの原動力になっているのか?」

と感じることがあります。

 

一人一人、違った形ではあっても、結局それは「自分(と思っているモノ)が欲する物事、欲求」によって為されているのではないか、というのが現時点での個人的な予想です。

 

ある人の行為は、その人の欲求を満たすために行われていて、それに反対する人はその人の欲求に従うことによって反対行為を為す、という。

 

最近は、何においてもその傾向が顕著に表れている気がします。

 

しかし、どうでしょうか?

 

あるものを打ち倒して誕生したものが「前よりも歓迎できる」と判断された事がどれほどあるでしょう。

 

政治の世界でいえば

革命→前の方がよかった→革命→やっぱダメ→革命→崩壊→革命→………

このようなことが延々と続いているという状態。

太古の話ではなく現在進行形で起きている、ということを考えれば、それが続く状態は人々の幸福、ハッピーには結びつかないのではないのかな、と察することができます。

 

この形は政治だけに限らず、人間のすべての活動において見られることだと思います。

 

自分(と思っているモノ)の欲求を果たそうとする行為―――それを阻害する存在は敵で、手助けする存在は味方。欲求が果たされたら、さらなる次の欲求を探し出しそれを満たそうとする―――

 

これまでの世界でずっと続けられてきて、今もそしてこれからも続いていくであろう形。

 

もしも、本当にこの世界を変えようとするならば、この形を壊さない限り、また同じことの繰り返しになるのではないでしょうか?

プレーヤーが変っても、その根っこの部分が等しかったら、たとえ表面が真新しかったとしても行きつく結果は同じという。

 

 

 五感を通して生じる心や体から発せられる欲求や欲望を抑える―――これはほぼ不可能に近いことかと思われますが、そうだとするなら「その欲求を満たす行為自体が、新しい世界を大きく形にする原動力になる」ようなシステムを生み出せばよいのです。

 

抽象的でわかりにくいと思いますが、いずれ具体的な形が見えてくると思っています。

 

 

 

 

 

久しぶりの更新になりました。

例によって、他の活動に力を割いているため、こちらのブログがおろそかになっておりますが、もう少し(11月後半から12月くらい)で、完全にリンクするハズですので暫しのお待ちを。