ここのところずっと、経済・社会システムの考察ばかりしてきたので、ここで別の話題に触れてみたいと思います。
べつの話題とは
「ブッダの修行は必要なかったのか?」
というものです。
なぜ今それを?
書いてる当人もまったく意味がわからないのですが、最近そのことが妙に頭に浮かんできて離れないので、それについて考えてみることにしました。
本やネットで知る、シャカが悟りを得てブッダとなるまでの様子は以下の通りです。
「シャカは29才の時、出家し6年間厳しい修行を積んだ。しかし、それによって悟りを得ることはなく、苦行をやめ里に下りることにした。そして菩提樹の下で瞑想中に悟りを得、ブッダとなった」
このことから、「ブッダとして悟るためには苦行の必要はない」というのが一般的な見解とされているようです。
しかし、本当にそういう見方でよいものなのでしょうか?
「苦行では悟れない」
そう気づくためには、それを経験していなければなりません。
シャカが悟りに至った一連の流れの中に苦行があったのなら、たとえそれで悟れなかったとしても、その苦行は必要なことだったといえるのではないでしょうか?
その観点に立てば
「苦行は直接悟りに至るものではなかったけれど、無駄ではなかった」
という見方ができるはずです。
これは、これまでのシャカの修行に関する一般的な解釈とは違うタイプの見方かもしれませんが。
また、苦行に関する一般的な解釈「悟るために苦行は必要ない」は、たぶん「(大乗)仏教的」なものです。
それに属さない人や団体にとっては
「悟るために修行や苦行をしているわけではない」
「シャカと同様に悟るために修行や苦行をしている」等、
さまざまな考え方があるのだと思われます。
その辺りを混同して(大乗)仏教的に判断・批評するのは、様々な誤解を生み出しかねないので注意したいところです。
さて……
ここからはちょっと寄り道的な話題になりますが、修行や苦行に関するSF的な予想として「修行や苦行のひとつの意味合いとして、それをそう感じなくなる境地を見つけるために行う」のではないのかな、と思っています。
苦行しているのに、それが苦行と感じなくなる。
その境地を見出しし時、それまで感じることのなかった存在を自らの中に認めるであろう
とか、そういう感じで笑
願わくは、常にその境地にいたいものですが、俗世にあっては……というより俗人であってはなかなか、といったところでしょうか。
また、修行の有効性に関して、各々の修行には何らかの肉体的・精神的効果があるのかな、と思っています。
それが悟りに結びつくかどうかはわかりませんが。
例えば滝行。
どこか特別な場所(聖域、聖地)で特別な方法(呪文や印)を用い滝に打たれる。
やったことないので言い切れませんが←
水の冷たさや勢いによる、筋肉の収縮と緩和、血行がよくなるといった肉体的な効果の他に、気分がさっぱりしたり、浄化されたり(?)といった精神的な効果等、何らかの好影響はあるでしょう。
ただ、さっき触れたような境地(苦行を苦行と思わなくなる)に至るには、別に滝行じゃなくても、家のお風呂の快適なシャワーに打たれても得られるものだと思っています。
冷たくて痛いほど勢いのある滝の水に打たれながら、それにまったく影響を受けない部分。
適温で心地よくシャンプーしながら、それにまったく影響を受けない部分。
それを見つけることで、新たな見地に辿り着くという意味において、どちらのシチュエーションであっても同じ場所に行けるはずです。
もしかしたら、こういう部分をしてブッダは「苦行は必要ない」と言ったのかもしれません。
「どこで何をするのか」ということよりも、「何を感じるべきなのか」知る重要性を、改めて認識したいところです。
それについて触れようとしている媒体や会合は、それこそ数え切れないほど存在していて(本、ホームページ、ブログ、セミナー、その他……)、目移りするどころか、目が廻りそうなくらいなのですが、なかなかコレといったものには出会えません。
あるにはあると感じますが、驚くほど少ないといった印象です。
逆にいえば、それだけ「それ」を得る(知る)ということが難しいということの表れなのだと思いますが。
このブログでも何度か触れてますが、世界を良い方向に変えていくには、経済や社会のシステムを変えていくだけでなく、心の部分も変えていかなければならないでしょう。
そういう意味において、今回の更新は次に来る社会・経済システムに関連している、といえるかもしれません。
たぶん多くの人にとっては、単なるオカルト・トンデモ・意味不明な内容に映るとは思いますが……