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空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

誰かが儲ける時、他の誰かは奪われている

 

今回は、「儲ける」ということがどういうことなのか考えてみたいと思います。

 

製造業において、ある製品を作る時にかかった費用(材料費、設備投資費、光熱費、家賃、人件費等)を「原価」といいますが、これに価格を「上乗せ」した部分が「儲け」にあたります。

 

ネット上で「儲ける」ことについて記されている記事の中で、よく目につくものを挙げてみると……

 

「儲ける」ことは悪いことではない

「儲ける」ことは奪うことではない

「儲ける」ためには「奪う」くらいの気持ちがないとだめ

「儲ける」ことを悪いことだと感じている人は稼げない

 

等々。

 

このようなことが書かれるということは、「儲ける」ということについて「悪いこと」だとか「奪うこと」だと感じている人がいる―――もしくは著述者が「そのような人がいる」と思い込んでいる―――ということを示しています。

 

なぜ人は「儲ける」ことを悪いことだと感じるのでしょうか?

 

これは簡単に表せば

「誰かが儲ける時、別の存在(人や企業、国、等)は損しているから

ということなのかもしれません。

 

モノなりサービスなりの換わりに受け取る対価の中の儲けであれば、喜ばれこそすれ損させているということにはならないのかもしれませんが、それでも誰かの「帳面上の資産」は減ることになります。

 

その儲けが適正な範囲内であれば(何をもって適正とするかは難しいところですが)、問題ないと感じる人が多いのでしょうが、中には相手の足下を見て「ぼったくる(法外な料金設定をする)」人もいます。

 

必需品なのに供給が追いつかない、独占的に販売することができる。

 

このような場合、儲けの部分を大きく設定しても、人々はそれを買わざるを得ません。

 

「必ず売れるものなら、安く売れば?」

 

当然そういう考え方もありますが、実際は「作る側・売る側」の気持ちしだいということになります。

 

供給者が「与える」とか「配る」という気持ちを持てば儲けは少なくなり、「稼ぐ」とか「奪う」という気持ちを持てば儲けが多くなるのです。

 

そういう部分をして、人は「儲け」に対する拒否感・否定感・嫌悪感を持つのではないでしょうか?

 

実際は「儲ける」ということに対して否定的なのではなくて、その背景にある供給者の気持ち、性格を量る度合いとしてそれを見ている、という。

 

 

資本主義下においては「投資と回収」によって経済活動を行うことになりますが、投資を増やし回収も増やしていくためには、その原資となっていく「儲け」の部分がかかせません。

 

よって、資本主義の中で事業を継続していくためには「儲けること」が絶対条件となります。

 

社会全体の「投資と回収」がバランスよく拡大していく時は好景気となり、誰もがその恩恵を受けられるように感じます。しかし、そんな時であっても「誰かが儲ける時、別の存在(人や企業、国等)の資産は減っている」という形は変わっていません。

 

ある国、ある企業、ある人が儲ける時、他のいずれかの存在は資産を減らしているのです。

 

 好景気な時は、その減らした資産を「別の何か(信用取引や他から借りること)」で補うことができますが、一度その歯車が壊れると、減らした資産も他から借りた分も、補填されることなく「純粋な損失」となって表に現れてきます。

 

これまで何度もバブルが弾け、その度に経済がリセッションしてきましたが、それは結局「儲ける」ということが、実は「他の何かから奪う」ことであり、それによって作られた誰かの「損失」はどこかに消えるものではなく、いつか必ず表に出てくる、ということを示しているのではないでしょうか?

 

 「儲ける」ということは「他の誰か(何か)から奪い」なおかつ「その誰かの損失を自分が補填しなくてもよい」時に成り立つ形なのかもしれません。

 

 

流れるように走る車列のうち、一台がブレーキを踏むことで後続に渋滞が発生し始めるそうです。

 

同様に「儲けている誰か」が貯め込んだり、どこかに隠したりすることで「その儲けに協力した側の存在」は力を失っていきます。

 

皮肉なことに、そのことによって、今度は「儲けていた側」がその儲け先をなくして、破綻していくのです。

 

 

それを解消するために最も簡単なのは「儲けのうちの何割か(適正な量)を広く社会に還元すること」です。

 

資本主義下における経済団体は「儲ける」ことに主眼を置いて、政治等にも影響を与えますが、もしもこれまでと同じく儲けて稼いでいきたいのならば、その点を真剣に考えるべき時が来ていると感じます。

 

より安い労働力を手に入れて……

より賃金を下げて……

 

というようなアイデアは、手っ取り早く儲けるためには良さそうに見えますが、長い目でみれば、自らの儲けに対してまったくの逆効果を示します。

 

たぶん、多くの人がこのことに気づいているのだと思われますが(というか、儲けることに長けた人ほどそのことに気づくはずですが)、誰もそれを解消しようとしているようには見えません。

 

なぜ自らの危機を黙って見逃しているのか不思議に感じてなりませんが、もしかすると、これらの事象こそが資本主義の終わりや次の新しい経済・社会システムの登場を促している、ということの表れなのかもしれません。

 

 

スピリチュアル系の本やブログ、ホームページに

「お金を得ること、儲けることに罪悪感を持っていると稼げません」

「お金に関するブロックを外しましょう」

というような記述を見つけることがあります。

 

それ自体は「その通り」なのかもしれません。

しかし、実はこの考え方も、もう一段俯瞰して眺めてみると、

「何かを為すためには『お金』や『儲け』が必要ですよ」

という強い観念を人々に植え付けている、ということに他なりません。

 

個人的には

「これまでの『お金』や『儲け』といった概念を内側に組み込んだ新しい経済・社会システムを創る」ことによって「何かを為すためには『お金』が必要」という観念がなくなるのではないのかな、と思っています。

(このことに関する考察はまた後で詳しく触れます) 

 

 「お金」や「儲け」といった概念がなくても、これまでと同じような形の社会を維持しつつ、これまで以上に、いや、考えられないくらい楽に、簡単に、さまざまなものが手に入るようなシステムができたとしたら、それを拒む人はいるのでしょうか?