流転する幸せ と 絶対的幸せ ──── その狭間から抜け出す時
久々の更新になってしまいました。
やはり
原稿用紙45ページぶんのブログとか書くと
反動が凄いですね。
前回のエントリは
書くのに3週間ほど掛かったのですが
構想自体は1年くらい積み重ねていたこともあり←
更新が終わった後は「出涸らし」みたいな状態になってました笑。
例年この時期(春先から梅雨前あたりまで)は忙しいということに加え、
前回の更新で
「まず幸せになりましょう」
などと書いた手前、
現実的な活動を充実させようと(いわゆる「リア充」的な←)
いろいろやっていたことで
ここまで更新が滞ってしまいました。
実際は、
そこに書かれていたこととは
「現実的な活動を充実させましょう」といったことではないのですが。 ←
さて……
その前回のエントリですが
簡単にその内容をまとめてみると
・資本主義も共産主義も「人を【物質に限定される価値観】の中に置いておくシステム」という点で共通している
・よって、資本主義と共産主義の中においては「形而上的にもたらされる何か(3次元的状況によらない揺るぎない幸せ)を得ることが難しい
・というよりむしろ「揺るぎない幸せ」などというものに達されてしまうと、システム自体が成り立たなくなってしまう(誰も経済的・序列的努力をしなくなってしまう)ので、「形而上的にもたらされる何か」などに達することがないように、そのようなものが存在しているということにすら気付かないように、システムとして目くらましするのは当然のことである
・そのことにより「資本主義や共産主義というシステムにおいては【絶対的な幸せや揺るぎない幸せ】といったものに辿り着くことは極めて困難なことである」ということが導かれる
・しかしながら、そのような「資本主義と共産主義」の世界に身を置いたままで、「絶対的な幸せ」(3次元的状況によらない揺るぎない幸せ)を模索していかなければならいこともまた事実である
・なぜなら、資本主義においては共産主義を、共産主義においては資本主義を、「倒すことで幸せになる」のではなく、「恒久的・絶対的な幸せを見つけて、ただそれだけに従って生きていたら、資本主義も共産主義も立ち行かなくなって自壊した」という形になることが事前に(SF的に)予想されるからである
といったようなことになります。
そこで
「まず幸せになりましょう」
ということになるわけですが
そりゃあ更新が滞るのも当然ですね笑。
「幸せになる……どうやって?」
必ずここに帰着するからです。
「それがわかっていれば
言われるまでもなく
既に幸せになってますけど」
ですよね~ ←
……ということで
ただ漠然と「幸せになる」といっても難しいので
「どのような幸せを目指していくのか」
「幸せとはなんぞや」
ということを
きっちり定義していきたいと思います。
…………………………………………………
何が人の幸せなのか?
…………………………………………………
十人十色、という言葉が存在する世界において
「誰もが納得する幸せ」といったものがあり得るでしょうか?
例として「野球」を挙げてみます。
プロ野球チームの「A」と「B」があります。
A対Bの直接対決最終戦で、その試合に勝った方がリーグ優勝となります。
ある意味、日本一を決める試合より盛り上がったりする場面ですが、ここにおいて人をいくつかに分類してみます。
・Aを熱烈に応援する人
・Bを熱烈に応援する人
・Aを多少応援する人
・Bを多少応援する人
・野球は好きだがAB以外のチームを応援している人
・野球にまったく関心のない人、もしくは野球が嫌いな人
……といったような感じになるでしょうか。
そして
結果は1対0で「A」チームの優勝。
当然、Aを熱烈に応援していた人は絶叫、大喜び、歓喜の涙等、激しく反応することになります。
逆に、Bを熱烈に応援していた人は絶叫、憔悴、嘆きの涙等、これも激しく反応することになります。
事象としては「ひとつの結果」しか現れていないのに、真逆の反応がそれぞれに起こるのです。
それでは
「多少」応援している人たちはどうでしょうか。
・勝ってよかった、嬉しい
・負けて悔しい、ガッカリ
程度の反応になるでしょうか。
同じAを応援している人でも、熱烈に応援している人と多少応援している人の間には、その喜び方に大きな差が生じます。
同様に、同じBを応援している人の間にも、その悲しみ方に大きな差が生じます。
このことは
自分の「想いの強弱」に従って、ある事象に対する心や体の「反応の強弱」が現れる
ということを意味しています。
また、
野球は好きだがAB以外のチームを応援している人にとっては、この結果は単なる「情報」のひとつです。
なるほど、くらいの反応です。
野球にまったく興味のない人、及び野球嫌いな人にとっては、試合結果など「どうでもよい」ことになります。
テレビや新聞、ネット等で、その試合が報じられていたとしても、一瞥(いちべつ)しただけで、「情報としても認識しない」ような状態でスルーすることとなります。
………
ここでは
野球を例にとってみましたが
この形は、他の何においても同じです。
お金、地位、趣味、嗜好(モノ、食品等々)、流行……
興味があるかどうか
望みや欲求があるかないか
どれくらいそれを欲しているのか
等々、
心の在りようによって
様々な事象に対する一人一人の心身の反応が変わります。
強く、多く欲すれば
それを得られた時の喜びは大きく
得られなかった時の悲しみも大きい
欲しがらなければ
得られなくても
さらには
失ったとしても動じない
極端な話ですが
人は様々な物事、事象の間で
このふたつの狭間を揺れ動いている、といえるのではないでしょうか。
・欲しいものを出来るだけ多く、大きく勝ち取り、欲しないものを遠ざけることによって、常に強い幸せを感じていくことを目指す人生
・どれだけ欲するものを手にしても、いずれそれに飽き足らず、また別のものを求めてしまうという虚しさを捨て、現状(もしくは何らかの存在)に満足することで、上げ下げのない安寧で恒久的な幸せを目指す人生
前者は、現代社会において正解とされている生き方です。
・常に強い幸せを感じるために、社会における成功者になろうとする
・成功者となるために、できるだけピラミッドの頂点に近づこうとする
・ピラミッドの頂点に近づくために経済的成功を収めようとする
・経済的成功を収めるために良い会社・団体・組織に入る
・良い会社・団体・組織に入るために有利な大学に入る
・良い大学に入るために有利な高校に中学に小学に幼稚園に……
・大きく成功するために起業する
・企業した会社を株式上場し創業者利益を得る
……等々、
(少々脚色し過ぎなきらいもありますが←)
成功への近道、理想的な人生、模範的な生き方、のようなものが
様々な時に、様々な場面で提示されます。
それこそが「幸せへの一本道」であるかのように。
このような形で示される
「この世界で幸せに生きるためにはどのように生きるべきか」
というモデルケースに
人は大なり小なり影響を受け、
「モデルケースと同じだから俺は成功者だ」
「脱落したから俺はダメだ」
といった判断を自分や他人に下すことになります。
そのこと(モデルケースとの合致性)自体は
個人が直接的に感じる【幸せ・不幸せ】とは、まったく関係ないものなのですが、
「正解とされているもの」に近い、ということが
人の安心感や満足感、優越感を生み出し、そこから「幸せ」を感じるのかもしれません。
また、
ここに挙げた具体例は
資本主義社会を対象にしてまとめたものですが、
現在は、共産主義国においても
同様な形(進学や民間株式会社等)となって現れています。
このことは
資本主義も共産主義も
物質に関わる欲求(3次元的現世利益)を満たそうとするものである
という点において、
このブログで予想された
『資本主義も共産主義も「人を【物質に限定される価値観】の中に置いておくシステム」という点で共通している』
ということの裏付けになるものだと思われます。
そして、そのことは
これまでの理論展開通り、
システムを維持していくためには
非物質的な作用による幸せ ──── 形而上的にもたらされる幸せ ──── に、人を近づけさせてはならない
ということが絶対的命題となるが故に
人はそのようなものから遠ざけられることとなります。
つまり
資本主義や共産主義は
システムとして「人に恒久的な幸せを与えない」のです。
だから
今の、現在の世界が
このような状況となっている、のです。
というわけで……
先に挙げたふたつの形 ────
・欲しいものを出来るだけ多く、大きく勝ち取り、欲しないものを遠ざけることによって、常に強い幸せを感じていくことを目指す人生
・どれだけ欲するものを手にしても、いずれそれに飽き足らず、また別のものを求めてしまうという虚しさを捨て、現状(もしくは何らかの存在)に満足することで、上げ下げのない安寧で恒久的な幸せを目指す人生
……のうち、
結局
後者を選ぶことでしか「永続する幸せ」みたいなものには辿り着けない、ということになります。
3次元的な世界
物質を対象としたもの
現世利益的なもの
とは、
すべて「相対的」なものあり
それぞれの「価値」は時代や好みの変遷等で
移り変わっていくものです。
これまでの世界では
「目に映る魅力的なもの」を追い求めて幸せになる
ということで満足でき、
それが(システムとしても)正解だとされてきました。
しかし、
実際の感覚として
「自分は本当にこれを求めていたのだろうか?」
「何か本当に大事なことを見逃しているのではないか?」
といったような想いが浮かんでくる時 ────
現世から 別の世界へ
目に映るものから 映らないものへ
関心が向き始めるのかもしれません。
その「別の世界、目に映らないもの」とは、
3次元には収まらない
物質として現れない
現世にとどまらない
というようなものであり、
時代やシステム、文化などが変わったとしても
その「価値」がまったく変移することのない
「絶対的なもの」なのだと思われます。
そして
そこに至ってようやく
人は「それの他に何か探す必要のない境地」に辿り着き、
<【それ】自体を常に意識していることで >とか
< 自らが【それ】自体でもあるということを知る >ということによって、
「現実」と呼ばれている世界に現れるどのような事象の影響も受けず
常に平安で
常に変わらない
「恒久的な幸せ」といったようなものを得られるのではないのかな、とSF的に予想しつつ……今回の更新を終わりにします。
(※今回のエントリの中に、もう少し掘り下げてみたい部分があったのですが、続けるとまた長くなりそうなので、次回の更新で取り上げたいと思います)