空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

不立文字についての勝手な見解

 

禅宗の教えに「不立文字(ふりゅうもんじ)」という概念があるそうです。

 

不立文字とは「禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味」で、「禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変ってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めである」(以上、Wikipediaより)、ということだそうです。

 

Wikipedia以外(本、ネット等)でもだいたい同じ様な記述が多いようです。

 

個人的には、ここに「概念の束縛から逃れるために、あえて文字で伝えない」という意味を見出したいな、と思っています。

 

前のエントリ(自由について書かれたもの)でも触れましたが「何かを誰かに伝えようとする時、それは誰かの概念を束縛しかねない」のです。

それが、どのように高貴な存在からもたらされたものであれ―――いや、むしろそいったものであればあるほど―――それは人の「判断における重要な部分」を特定の概念に固着させてしまう恐れがあります。

そのことについて書いているこの文章でさえ、そういうものになっていることでしょう。

 

ブッダ自身が得たモノの中に「自由そのもの」があったのではないのかな、と感じているので、そういった「概念を束縛するもの」をなくしていく、という意味において「不立文字」という考えは重要なのかもしれない、と思っています。