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Science Fiction Singularity

共産主義と資本主義の失敗は目指すベクトルを間違えたから

前回の更新(共産主義も資本主義も人の為には存在していない)で、共産主義と資本主義の双方で共通している問題点を考察しました。

 

それは、端的に表せば

共産主義も資本主義も、個人の幸せとかどうでもよくて、自分自身(そのシステム、体制)が続いていけばいい、という前提で存在している」

ということになります。

 

ここで、わかりやすいようにそれぞれが目指していく方向を図式化してみます。

まずは共産主義から。

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共産主義は、その体制を維持するために「反対するもの」をことごとく潰していきます。個人・組織の別なく、体制にとって都合の悪い物事を広めるような存在を認めません。

思想や信仰、行動の自由も制限されます。

 

これは、多様性を認めることにより、万が一、共産主義よりも優れた考え方、存在―――実際に、ということでなく人気的にということであっても―――が現れてしまうと体制が維持できなくなる恐れが出てくるからです。

 

そのため「邪魔」と感じる存在はすべて排除されることになります。

 

初めは市井の中にいて目立つ存在を、

次に党の中にいるそれを、

最終的に、自らの権力を脅かす身近な存在を排除するようになります。

 

初めは敵、次は味方、さらに身内のライバルを―――

 

このようにして組織や思想を精錬化し純度を高め、体制の安定確保を図るのです。

 

これは時代や場所(国)が違っても、共産主義に共通して起こっている現象です。また、共産主義に限らず、革新的な組織・団体においても同じような傾向が見られます。

 

初めは外に向いていた矛先が、次第に内向きになり、仲間同士傷つけ合って、やがて組織そのものが瓦解していく。

 

理念とか建前としては存在していたとしても、そこに「個人の幸せ」を慮るような視点は全くありません。

 

 

次に、資本主義が目指すベクトルを見てみます。

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資本主義においては、個人も組織もとにかく資本(お金)の増加を目指します。

 

しかし、この視点にはふたつの問題が存在します。

ひとつは「実際には資本(お金)が増えたからといって、必ずしも幸せになるとは限らない」ということ、もうひとつは「お金を持っている人(会社)が必ずしもエライわけでははい」ということです。

 

このふたつ目の問題「お金を持っている人が必ずしもエライわけではない」ということに関して、このことはこれからの経済を考える上で、かなり重要な鍵になりそうなのですが、今回の更新では触れず、次回以降に回を改めたいと思います。

 

現在、テレビでも新聞でもネットでも、常に景気や経済状況が大きく取り上げられ、誰彼かまわずそれに気を取られるような状態になっています。

 

それはまるで「資本(お金)を増やしていき、社会においても個人においても景気の良い状態を作り上げなければ、この世の終わりが訪れる!」と人々を脅しているかのようです。

 

そこにおいては、たとえつつましく生活する上でじゅうぶんな蓄えがあったとしても、安心できるようにはなりません。

 

もっと、もっと、という想いを人に抱かせるようになります。

そのような状態におかれて、人は十全な幸せを感じられるものなのでしょうか?

 

 

また、このベクトルに関して、実際的に考えて見れば、資本を永続的に増加させていくのは無理だと気づくことができます。

 

儲ける人がいる時、損(資本の減少)する人がいるのです(この「損」はお金がモノやサービスその他として変換されることを考慮した上で、単に資本(数字的な)の減少を意味するものです)。

 

誰かが、あるいはどこかの企業が莫大な富(お金、資本)を蓄える時、それに貢献した人や企業がいる(ある)のです。

 

最近は「世界の最富裕層80人の資産の合計が、人口の半数にあたる35億人の資産総額とほぼ同額(国際NGO『OXFAM』調べ)」というようなもの凄い格差が出来ているようです。

また、この傾向が続けば2016年(去年)には「上位1%の資産総額が残り99%の資産総額を超える」と予測されているとのこと。

 

これらのことは、資本主義が洗練されればされるほど資産の偏りが大きくなるということを物語っています。

 

資本主義の前提は「個人も組織も資本(お金)を増やしていく」ことなわけですが、それが昂進するほどに格差が広がり、儲けられない人や損する存在が増えるというなら、その時点で既に「前提」が崩れ去っているのではないでしょうか?

 

 

さらに別の問題として「人や組織の価値を計る上で、資本(お金)が指標となるシステムにおいて、獲得した資本を消費や投資に回すのが得策なのか?」ということがあります。

 

―――お金を持ってるから認められている、のに、それを使って減らしてしまったら、自らの力の根源やステータスを危うくしてしまう―――

 

儲けている企業やお金持ちがお金を使いたがらない理由がここにあります。

 

「資本家による資本の投資と回収」という資本主義の大前提が、自らの抱える矛盾によって停滞してくる現象が発生しているのです。

 

このことによって、経済は硬直化し、うまく回らなくなっていき、格差も広がるばかりとなります。

 

 

さて……

それでは共産主義や資本主義の次に来る経済・社会・政治システムはどんなベクトルを目指せばよいのでしょうか?

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これです。

 

システムの維持やお金を目的とするのではなく、「ハッピー」そのものの獲得を目指すのです。

 

もの凄く突き詰めて考えると、システムの維持やお金の獲得も、本来はハッピーを得るための手段として生み出されたものなのでしょう。

しかし、その「手段」を「目的」のように勘違いしてしまったがために「その活動を進めれば進めるほど社会も個人もアンハッピーになっていく」状態になってしまいました。

 

共産主義や資本主義が失敗したのは「その設計段階において目指すベクトルを誤ったから」なのです。

 

だから、次に来るシステムはこの「ハッピーを目指す」ベクトルに沿ったものにならざるを得ないのです。

 

 

「だとしても、ハッピーを目指すて……抽象的過ぎて……」

 

その具体的な中身についてはまた後の更新で触れたいと思います。