このブログでは
「資本主義」や「共産主義」に代わるシステムとして「与配主義」というものを、
「お金」に代わる指標として「順番決定制度」というものを提唱しています。
それについて初めて取り上げたのが
「マルクス、ケインズ、そして…… 資本主義の次のシステムはこうなる! かも」
というエントリなのですが、その中の一部を引用します。
「これまで、資本主義や共産主義が大きな二つの柱になってきたのは「政治、経済、思想の面で共感を得たから」ということだけでなく、「宗教的な面で支持された」という背景もあるそうです。
今回の更新で新たに提示されたシステムは、何か特定の思想や宗教的背景があるわけではないのですが ──── (以下略)」
(引用終わり)
詳しく調べたわけではなく、受け売りにしか過ぎませんが、
資本主義はキリスト教の「宗教改革」以降から隆盛を見せ始めたそうです。
古くからあるカトリックでは
「だれもふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない。」
という部分から、富を蓄積する行為は卑しいものだとされていたとのこと。
同様のことを想う人は少なくなかったらしいのですが、
それとは逆に
「富とは神の恵みと個々の救いの結果によるもの」
という見方をする人々が生じ、
利潤の追求の正当化によって資本主義の成功がもたらされた
と捉えられる、ということです。
一方、
共産主義の一般的なイメージは
「宗教を弾圧する存在」ということになりますが、
その共産主義の源流とされる思想の中には「キリスト教共産主義」というものがあるそうです。
「イエス・キリストの教えによれば、キリスト教徒達が共産主義を理想的な社会体制として支持しなければならない」という見解に根拠をおき発達した神学的で政治的な理論。」(Wikipediaより)
というもので、
それはマルクスが言及した共産主義の形と似ている部分もありながら
逆にマルクス主義やレーニン主義とは相容れない部分もあるもの、ということになるそうです。
このあたりは、近親憎悪のような関係性にあるのかもしれませんが、
客観的に見て
資本主義も共産主義も
キリスト教の影響を大きく受けている、ということが感じとられます。
キリスト教自身が
それらに対して直接的に何か働きかけることはないにしても、
それらにおける理論的裏付けの大きな背景になっている、ということは否めないかもしれない、ということです。
ここで
翻(ひるがえ)って
仏教を見てみます。
先日、たまたま眺めたサイトに
「自利利他」
という言葉を見つけました。
気になって調べてみると
「自利利他」は仏教用語で、
「自利と利他。自らの仏道修行により得た功徳を自分が受け取るとともに、他のための仏法の利益をはかること。自行化他。自他。」
「仏教用語。自分が悟りを得ようと修行に励み、その目的を自分の利得のみにとどめているのが自利、悟りを次に他人が利益をこうむるように他へ生かしてやるのが利他。小乗仏教は概して自利であり、大乗仏教は利他を目的とするといわれる。仏とはこの両業が完全化された人だとする。自行化他・自利利人・自益益他とも。」
という意味があるそうです。
与配主義は
「自分以外の誰かや社会に対して、与えれば与えるほど、配れば配るほど、公的な第三者機関からお金に代わる指標(順番決定ポイント)が与えられる」
というシステムなのですが、
これはそのまま
ここでいう「自利利他」という概念に即していることに他ならないのではないでしょうか?
その対象が
「悟り」や「功徳」から
「経済活動」に替わるだけであって ←
自分のためだけにしているはずの行為が
実は 他の誰かや社会に対して「与えたり配ったりしている」
ということになるのです。
このことはつまり
与配主義というシステムの中で生きるということは
それをまったく意図していなかったとしても
100%完全に「自利利他業」を行っている
ことになるのです。
資本主義においては
「俺は俺さえ良ければそれでいいんだぜ~~」
という人は、ただ「そのような人」になります。
自分だけ良ければよい、ということによって
嘘や捏造、競合・競争相手への攻撃など、
あらゆる手を用いてまでも自らの欲を満たそうとし、
その結果、自分以外の誰かや社会に対して損害を与えても構わない、というような存在になってしまいます。
しかし
与配主義においては
「俺は俺さえ良ければそれでいいんだぜ~~」
と考え、その通りに行動していたとしても、
実際は
オートマチックに
他の誰かや社会に対して「与えたり配ったりしている」という状況が発生し
気付かぬうちに陰徳を積み上げている、ということになるのです笑。
仮にこの世界に
輪廻転生というシステムが実在した場合 ←
前者(資本主義)は
その業(カルマ)に従ったものとして
次回再生してくることになりますが、
後者(与配主義)は
その心根自体は前者同様だったとしても
結果的に「自分以外の人のためになることをした」という業(カルマ)によって、
次回生まれた際は
もっと
真実に近づけるような形の生を歩めることとなるのです。←←
……ということで……
今回の考察により、
与配主義にも「自利利他」という(大乗仏教的)強烈な宗教的裏付けがあることがはっきりと示されました。
また
それとは別に、
実は
仏教以外の宗教(キリスト教その他)においても
与配主義が認められうる可能性を感じさせる背景があることがわかってきたのですが、それはまた別の機会に紹介したいと思います。
……ということで……
これまでの世界は
キリスト教的価値観から大きな影響を受けた社会・経済システムによって運営されてきた、ということになりますが
これからの世界は
仏教(その他)の価値観を大きく反映した与配主義、もしくは与配主義的な社会・経済システムが現れることによって、
これまでとは
まったく違った形の、
そして
「社会や経済といったものを超えたところある何か大切なもの」
を探し出すことを目指す世界になっていく
ということをSF的に予想しつつ
今回の更新を終わりにしたいと思います。