空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

「自分」が救われる時、ほんの少し「世界」が救われるのではないか、ということ

 

前回の更新では、

 

社会全体が同時に幸福であることは難しいけれども

「社会とは個人の集合である」ということを考えれば

個人の幸せが増すことによって

全体の幸せも増すのではないか?

 

といったことが導かれました。

 

 

そこで

今回のエントリでは

「個人が救われることの重要性」を考察していきます。

 

 

ここで

参考にしたいのが

「シャカ」(ゴータマ・シッタールダ、仏教の開祖)です。

 

シャカが

悟りを得て「ブッダ」となり

その境地に至るための方法論のようなものを人々に伝え始め、

それが後に世界三大宗教のひとつ「仏教」となったわけですが

その教えを紐解くための一つの材料として「仏典」というものがあります。

 

「仏典」を調べてみると、

仏典とは仏教典籍の略称で、仏教の聖典の総称である。「律蔵」「経蔵」「論蔵」という分類形態から三蔵とも呼ばれる。言語的には、パーリ語サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語、チベット語モンゴル語満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準ずる。

Wikipedia「仏典」より一部抜粋)

 

……とのことで、

 

そのうち

漢訳仏典として5048巻、

パーリ語仏典としては何巻あるかわかりませんが、その日本語訳としては65巻あるそうです。

 

 

ものすごく大量にあるなぁ……

 

……というのが正直なところで←

それらの全てを読み切った人はいるのか、

それを読んだことで何か変わるのか、

また

仏典自体がブッダの死後編纂(へんさん)された、ということから

そもそも

そのように編集されたものを読んだ(覚えた)ところで

ブッダそのものに近づけるものなのか?

といった疑問が湧いてくるところでもあります。

 

 

さらに……

 

それだけ大量の聖典があり

ブッダ登場から約2500年も経ったといわれる現在の世界がこのような状況である時、

それら(大量の仏典)に何らかの重要な意味合いがあるのだろうか……

といったことに言及しないわけにはいかなくなります。

 

 

ただ……

 

その膨大な著述の中には

なにか仏教における非常に重要なエッセンスのようなものが(少なからず)含まれているだろうということは想像に難くありません。

 

というのは、

そのようなもののひとつの具体例として

「般若心経」が挙げられるからです。

 

 

般若心経とは

般若経』600巻をまとめたとされ、大乗仏教の真髄が説かれている。

特に「空(くう)」思想について説き、すべての事象は不変の実体をもつものではなく、深い知恵により執着を離れることで悩みや苦しみから解放されるとする。

曹洞宗近畿管区教化センター「お経入門:摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)」より)

 

というもので、

約260~280文字という、

原稿用紙1枚にも満たない文字数で

大乗仏教において極めて重要なことが表現されていると言われています。

 

 

600巻を300字弱でまとめてそれが絶賛されるとか

「やればできんじゃん」

という感じなのですが←

 

だったらこのブログでも………

ということになるに至り←

 

出来たのがこれです。

 

 

シャカは

生きること、老いること、病気になること、死ぬこと、の苦しみから抜け出すにはどのようにしたらよいか集中して考えるため出家し

いろいろあった後、瞑想中に悟りを得、ブッダとなった。

 

 

以上です。

 

般若経600巻を300字弱にまとめたのが「般若心経」、

仏典5000巻強を90字にまとめたのがこの「空想科学特異点オリジナル仏典」となります笑。

 

いや……

何もこれはウケ狙いでまとめられたわけではなく

本当にこの部分にはもの凄く重要なことが示されているのではないのかな、と感じたことからこのように表現された、ということになります。

 

 

では

詳しく観ていきます。

 

・シャカは生老病死を苦しく想った

・その苦しみから抜け出そうと想った

・悟りを得てブッダとなった

 

詳しく、と言っても

これくらいになるのですが笑……

 

 

ここで重要なのは

「悟りを得てブッダとなった」という部分には

「もう生老病死を苦しく感じない」という意味合いが含まれている、ということです。

 

 

シャカだった時は苦しかったけれども

ブッダになったら苦しくなくなった、のです。

(苦しくない境地に至れたからブッダとなれた)

 

 

当たり前のことですが

シャカからブッダとなった後にも

生老病死」という状態・状況は変わらず存在しています。

 

実際、

ブッダ自身も

80歳まで生き(老い)

病気となり(食中毒とも言われています)

亡くなったそうです。

 

 

それでは………

シャカがブッダに成った時、

シャカの何が変わって

それらを苦しく感じなくなったのでしょうか?

 

 

 

また

この「オリジナル仏典」にはもうひとつ重要なことが含まれているのですが

それは

シャカがブッダと成った時点においては

誰か他の人を救ったという事実はない

ということです。

 

 

ブッダとなった後に、 

その境地を他の人にも伝えたくて説法し

それによって悟りを得た(救われた)人が出てきた

ということになるでしょうか。

 

 

…………

以上のことをまとめてみると

生老病死という現象について

  シャカはそれを苦しく感じ

  ブッダはそれを克服できた

ブッダとなるにあたって他の誰かを救ったわけではない

ということとなり……

 

 

これらのことはすなわち

シャカが成仏した時点におけるこの世界の変化は

シャカの内部でしか起きていない

ということを示しています。

 

 

他の誰かを救ったわけではなく

生老病死の現象もそのまま残っている ──── 

なのに

シャカはブッダとなれたのです。

 

 

このことは

ブッダとなる(悟りを得る、救われる)ためには

外側に展開する世界とは無関係に

自分自身の中の何かが変わるだけで良い

ということを現わしています。 

 

 

 

……ここで

前回の更新内容と絡んでくることになります。

 

前回の更新内容を簡単にまとめると

野球のAチームとBチームのリーグ優勝決定戦の結果によって

全ての人の心に「千差万別の感情」が生み出される、

ということになりますが

 

その「試合結果」がどのようなものであれ

それとは無関係に

自分自身の中の何かを整える、知るということが

悟りを得る・救われる(成仏する)ために重要だといえるのかもしれません。

(野球で成仏を語る試み笑)

 

 

ブッダが亡くなる間際に

弟子に残した言葉に

「自灯明、法灯明」

というものがあるそうです。

 

いろいろな受け取り方があるようですが

「自分自身と真理を拠りどころ(よりどころ)としなさい」

というのが一般的な解釈となるようです。

 

 

ただ

ここで言われる「自分自身」とはいったいどのようなものなのでしょうか?

 

「自分を拠りどころとする」

 

その「自分」とは?

 

 

いや、そんなの……「自分」に決まってるじゃん

 

 

果たしてそうなのか。

 

 

 

このブログでは

「自灯明」を

「自らを照らし出し その真の姿を見つけなさい」

ということ ──── 

つまり

「本当の自分を見つけ出せ」

と解釈したいと思います。

 

同様に

「法灯明」を

「真理を照らし出し 見い出しなさい」

と解釈することにします。

 

 

たぶんそれら(本当の自分、真理)は

知れば知るほどに「同義なもの」として近接していき、

「本当の自分」と「真理」が重なり合うことによって

涅槃(ニルヴァーナ:吹き消す)という状態に至れるのかな、

と予想しています(想像←)。

 

 

この部分

「灯明」と「涅槃(吹き消す)」が係っている

という形、

いかにも

「おぉ なんか意味深」

と感じさせ←

説得力も増すのではないでしょうか笑。

 

 

 

ということで……

 

今回のエントリでは

個人が救済されるにあたっては

「その人の中の何か」が変化するだけで良い

といったことが示されました。 

 

 

「自分の幸せを増すモノ・コト」を考える時

人は外側の環境(お金、地位、名誉、名声等)を整えようとしがちですが、

悟りだの涅槃だの解脱だのといった

究極の幸せ(と言われるもの)に辿り着くためには

内側(本当の自分)を知らなければならない、ということなのかもしれません。

 

 

普段感じている「自分」と

「本当の自分」との違いとは何か?

 

私たちは

「自分」というものが何を指しているのか

実はよくわかっていないままでいるのではないでしょうか?

 

 

ということで……

次回の更新では

「自分という認識」にまつわる考察をしていくことにします。