空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

本当の幸せ、本当の自分 ──── 資本主義と共産主義、宗教、オカルトを超えた先にあるもの

 

2015年から始めたこのブログも、5回目の4月1日を迎えました。

 

今回は、ブログ誕生日の更新ということで

資本主義や共産主義の真の意味とはどんなものなのか、といったことを

宗教と絡めつつ

オカルト、トンデモ、陰謀論を交えながら←

このブログ以外では読めないであろう

斬新かつオリジナルな視点でまとめていきたいと思います。

 

普段から

一回の更新の内容量が多めのブログなのですが

今回も必要なことを必要なだけ書いてまとめたら

400字詰め原稿用紙に換算して45枚になってしまいました笑(ブログの量じゃない)。

 

最初から最後まで通して読むことで

意味が通じる部分もあると思うので

できれば時間がある時に全編通して読まれることをオススメします。

 

これまでは

内容量が多かったとしても

最初から最後まで一本調子に「起承転結」的な流れで構成してきたのですが、

さすがにそれだと読みづらいと思うので

今回は初めての試みとして「章立て」型式でまとめてみました。

 

ということで

今回のエントリは

といった構成になっています。

 

後で読み返そうとした時、読みたい部分までスクロールするのが大変だと思うので、記事内リンクをつけました。

上の囲み枠内のタイトルをクリック、もしくはタップすることで、そこから読めるようになっています。

 

 

…………………………………………………

第1章 このブログの今後の展開について

…………………………………………………

 

丸々4年かけて、当初の目論見どおり、資本主義や共産主義とは異なる、まったく新しい社会・経済システムを模索する、ということをやってきました。

 

資本主義や共産主義、そして社会主義以外のシステムを考える。

 

ネット上を眺める限り、

そのようなことをしている人もいなくはないと感じられますが

残念ながら

理想や希望といったものは掲げられていても

「実際にどうするのか?」

といった部分にまで言及されている例はほとんど ──── というより、まったく存在していないように思われます。

皆無、と言っていいでしょう。

 

ただ、それは仕方がないことなのかもしれません。

 

かの

近代共産主義の生みの親、マルクスが記したものでさえ、

「それでは当の共産主義というものをどのように運営していくか」

といった具体的な中身に関しては

ほとんど語られていないのだそうです。

 

そんな中、

このブログでは

オカルト、トンデモ、エンターテイメントを自称しつつも

これまでのシステムとはまったく異なる

異次元のシステム

「与配主義」と「順番決定制度」を生み出しただけでなく、

「それをどのように運営していくのか」

といったことまでハッキリと提示してきました。

 

具体的な解説および表やグラフを用いることで

・これまでのシステムの何が問題なのか

・新しいシステムとはどういったものであるのか

・何を意図してそれが行われるのか

・破綻することなく続けられる持続性の確認

・他のシステムとは比べ物にならないほどの優位性

などといった点に関して、極めて詳細かつ明快に示されてきたのです。

 

そのようにして積み重ねられてきた

資本主義や共産主義に代わるシステム、

与配主義と順番決定制度というものについて

ブログ開始5年目を迎え

一旦それらを忘れることにします。

 

 

 

……えぇ…………

 

なんで………

 

せっかく具体的な形が見えてきたのに………

 

 

あくまで「一旦」ということです。

 

本当はこの更新の前、

2019年の3月末までに「順番決定制度」の詳細な内容をまとめ、4月からはまったく新しい内容について考察していく、という予定だったのですが、「順番決定制度」の解説にもう少し時間がかかりそうなので、4月以降も少しずつ触れられていくことになります。

 

ただ、そのこと ──── 与配主義や順番決定制度のことを一旦置いておき、別のことを探っていく ──── という姿勢自体は、ずっと前から示されていたことではあります。

 

例えば

2016年12月26日のエントリ

 

「社会・経済システムの転換によってハッピーになる」のではなく「条件なしにハッピーを感じることができるから、古いシステムが成り立たなくなり、システムの転換が起こる」のです。

 (「共産主義も資本主義も人の為には存在していない」より)

 

 

さらには

2015年4月5日に書かれたエントリ

 

先ほどは「社会・経済の転換」によって「ハッピーになる」と書きましたが、これは逆なのかもしれませんね。

 

「みんなが一瞬でハッピーになっちゃう」→「これまでの社会・経済システムが成り立たない」→「システムの転換が起こる」という。

(「このブログが書かれていく度……」より。このエントリに至ってはブログ開始後4回目の更新です)

 

 

ここに挙げたもの以外にも

同じようなことを書いたエントリがいくつかあるのですが、

要は

これまでとは違う何か別のものを提示して

「こっちの方があっちよりも良いからこっちを選ぼう!」

と言っているだけではダメ、ということです。

 

そのようなアプローチは

これまでの世界でずっと繰り返し行われてきたことでもあるし、

一見、変革が起きたように思える事象があったとしても

「真の意味における変化」が起きたことは「まれ」であり

実際はうまくいっていなかったり、前の方が良かった、というようなことになったりしています。

 

そうではなく

 

システムとは無関係なところで人の幸せが実現する時、

人はシステムから離れて自立することが出来るようになり

それが故にそのシステムは意味を失って崩壊し

何か別のものに置き換わる

 

ということです。

 

 

このブログが

これまでの4年間で行ってきたこととは

極めて論理的かつ整合性を持った優れた内容を提示しながら←

その形は

「あっちよりもこっちの方がいいよ」

といったような従来通りのアプローチの仕方であり、

それだけだと

本当の意味における「変化」は起こせない

と捉えるのです。

 

ということで

今後は

「システムをどうするか?」ということの前に

「まず幸せになりましょう」ということを目指していきます。

 

 

………どうやってやるんでしょうか?笑

 

 

……とりあえず……

以上のようなことが

今後このブログで考察していくメインの内容になります。

 

 

…………………………………………………

第2章 なぜ世界には「資本主義」と「共産主義」と「社会主義」しかないのか?

…………………………………………………

 

次に……

社会や経済のシステムにおける根本的な疑問として

なぜ世界は「資本主義」「共産主義」「社会主義」のみで語られるのか?

ということについて考えてみたいと思います。

 

資本主義、共産主義社会主義

それぞれに一長一短あって

どれが最善であるのか、といった答えを出すことはできませんが

「現実の世界」を眺めてみると

どれも最善にはほど遠い、という印象を受けます。

 

それぞれ(資本主義、共産主義)の具体的な問題点に関しては

これまでの更新でさまざまに触れてきたのでここでは取り上げません。

(「マルクスを丸くする  社会主義・共産主義の回顧」)

(「「人を幸せにしてはいけない」と資本主義は言った  資本主義の致命的な欠点」)

(「共産主義も資本主義も人の為には存在していない」)

(「共産主義と資本主義の失敗は目指すベクトルを間違えたから」)等参照

 

ここでは

「なぜ、そのような完璧性に程遠い3つのシステムだけにこだわろうとするのか?」

といった部分を考えていくことにします。

 

このブログで示してきたように

資本主義や共産主義社会主義といった旧来のシステムとは異なる新しいシステムを産み出し

それらの欠点を全て解消することにより、

それらにおいては成し遂げることのできなかった

もっと簡単に

もっと楽に

もっと低エネルギー(高エントロピー)で

最上の幸せを易々とゲットしていける社会を築いていく ──── 

 

 

そのようなことが

なぜ社会の中で語られようとしないのでしょう?

 

「そういったことにはちょっと疎(うと)くて……」

 

というのが一般的な人の抱く印象だとするなら、

せめて

アカデミア(大学・研究機関等)の世界

──── 特に経済学や社会学において ──── では

語られ、考えられ、産み出されていくようなものなのではないでしょうか。

 

しかし、そのような兆候は見られない。

 

 

なぜなのか? 

 

なぜ世界は(アカデミアの世界においてさえ)

資本主義と共産主義でしか語ろうとしないのか?

 

このことは

社会や経済というものを考える上で

とてつもなく大きな疑問として浮上してくる問題です。

 

「それらが現在の主要なニ大システムだから

 それについて詳しく考察するのである」

 

………

もちろんそれはよく理解できるのですが、

果たしてそれは「アカデミックな姿勢」といえるようなものなのでしょうか?

 

いや、

「アカデミック」という言葉のもうひとつの意味で捉えるとするなら、まさに「伝統に基づいて」それしか取り扱わないという姿勢は間違っていないのかもしれません。

 

しかし、そこに「革新的な発見」や「実際の社会の著しい発展に繋がる成果」といったものが生じることがあるのでしょうか?

 

…………

未舗装の、石ころや土で造られた、デコボコした道があるとします。

 

車で走ると激しく揺れ、体のあちこちが痛んだり車酔いしたりします。

 

研究者たちは

・車の剛性を上げればよい

・タイヤの材質を柔らかく

・サスペンションをコンピュータ制御する

といったような対策を示すわけですが、問題の本質は解決しません。

 

舗装して初めて、快適なドライブが可能になるのです。

 

…………

 

それにしても不思議なのは

様々な物事を学問的に捉え、自由に研究するはずの大学や大学院、研究所といった場所においてさえ「資本主義・共産主義社会主義に代わる新しいシステム」を考察しようとしないのであれば、いったい誰がそれをするのか?

ということです。

 

そのことを考えると

 

もしかして世界は、資本主義や共産主義社会主義といった既存のシステム以外の形を考案されたら困るのではないか?

 

だから誰も ──── 経済学者や社会学者でさえ ──── それ以外のシステムを産み出そうとせずに(あるいは産み出せずに)、旧来のものだけを対象に、分析・批評しているだけなのではないか?

 

といったような、

ある種の陰謀論めいた見方さえ生じてきます。←

 

 ……ということで

ここでは

その見方(オカルト・トンデモ・陰謀論)に従って←

 

「実は世界は元々そうなるように設計されていた」から

「資本主義と共産主義社会主義)でしか語られないのである」

 

といった形で捉えていくことにします。

 

 

 「元々そうなるように設計されていた」とはどういうことか? ──── 

 

仮説というか、仮想を用いて考えてみることにします。

 

 

…………………………………………………

第3章 人が「資本主義」と「共産主義社会主義)」のみに集約される理由

…………………………………………………

 

あなたがもしこの世界で

「とてつもないような地位(すべてをコントロールできるような極めて上位の立場)を得た」

としたら、何をするでしょうか?

 

自らの様々な願望を叶えていくことと思いますが

そのうちに

「このような立場を手放したくない」

と感じ始めるのではないでしょうか。

 

もし

「自分の立場を危うくするような存在」が現れたなら

何としてでも排除しようとすることでしょう。

 

なにしろ

そのための強大な力 ──── 圧倒的に敵を排除する能力 ──── は既に手にしているわけなので、あとはそれを行使するだけです。

 

ただ、

気がかりなのは

そのようにして「力によるねじ伏せ」が目立ってくると

「何とかしてあいつを倒そう」

といった人々が結集してしまう危険性が出てきてしまうことです。

 

このようなことは

洋の東西を問わず

歴史上何度も何度も見られてきた現象です。

 

なので

何かそれに対する策を講じておかなければなりません。

 

 

そのための力を持っていながら、

それを行使してしまうと

逆に自らの立場を危うくしてしまう ──── 

 

そんな時、どうすればよいのか?

 

力でねじ伏せるのは簡単だが

それをしてしまうとかえって危険である……… 

 

それならば、むしろ逆に

「ゆずったり、負けたりしたように見せかけて、その裏側では以前と変わらず、自分がすべてをコントロールする」

というような立場に立つのが、よりスマートだと言えるのではないでしょうか。

 

名を捨てて実を取る、といった姿勢です。

 

 

見た目はもの凄く変化する

不満を持っていた者たちが溜飲を下げる

前とはまったく別の形となった新しいシステムが誕生する

 

人々は勝利に酔いしれ そのことを誇る ──── 

 

しかし

実は

その裏では

本質的な部分は何も変わらず

それまで実権を握っていた存在が依然として……いや、前以上にその力を貯め込んでいく ──── 

 

そのような形を

「とてつもないような地位」にいる人間(もしくは人間以外の存在←)が

「自分自身で用意しておく」のです。

 

その世界で もの凄い力を持っている存在が

その世界とは「真逆な世界」を自ら設計して創り出し(用意し)、

「自分に反対する人々が、それぞれの意思に基づいて、その真逆な世界を選ぶ」

というような形をあらかじめ作ってく、のです。

 

自分に反旗をひるがえす者たち用の

「受け皿」となるものを自分自身で用意しておくのです。

 

 

人はそれぞれの正義感や義憤により

ある大きな存在を倒そうと結集する。

が ────

実は

その結集先の団体や概念といったもの全てが

その打ち倒したい相手自身が用意していたものだったとしたら ──── 

 

そこにおいてどのような事が為されても

その相手は、まったく影響を受けないのです。

 

 

このことを

「資本主義と共産主義」に当てはめてみるとすれば……

 

「資本主義はダメだ! 共産主義の方が良い!」

「なにを言っているのだ? あんな危険なものは絶対に認めない!」

「力による革命で転換を!」

「アカ狩りだ!」

 

…………

それぞれの信奉者たちは蛇蝎(だかつ)の如く相手を嫌い

亡き者にせんと日々闘争していくわけですが、

その実

上の、さらに上の方では

「あー どっちでもいいょ~。でもほどほどにネ」

といった感じで のほほんとしている、という形になります笑。

 

なぜ のほほんとしていられるのか?

 

「資本主義」も「共産主義」も

自分たちによって用意されたものだからです。

 

危険なのは

資本主義(共産主義)に従わない人々が

何か別のもの ──── 自分たちの地位を脅かす予想だにしない異質なもの ──── を創り出し、

世界をそれに変えてしまうこと、です。

 

だから

世界は「資本主義」と「共産主義社会主義)」によってのみ語られなければならないのです。

 

 

………

ここで、現実的な例を考えてみます。

現在、資本主義に疑問を感じた人が取る行動はどういった感じになるでしょうか?

 

資本主義の何が問題であるのか?

それ以外には何があるのか?

それぞれの長所・短所は?

 

といったことを調べ・考察・吟味し、最終的に「共産主義」か「社会主義」のどちらかを選ぶのではないでしょうか?

 

なにしろ

その概念(共産主義社会主義)は

資本主義同様、既にこの世界に確固とした地位を築いていて

同じ気持ちを持つ(であろう)仲間(党員)が多数いるだけでなく、その理想を実現しようとする国会議員まで存在しているのです。

 

資本主義へのカウンターとして

組織力やお金などの面において、大きな力を持つ存在として頼もしく感じ、自らの熱い意思に基づいて、そのどちらか一方を選択することになるでしょう。

 

しかし……

 

実はそれこそが落とし穴、なのかもしれないのです。

 

 

なぜなら

それらのシステムや概念すべてが

同じひとつの存在によって

「自分のコントロールが及ぶ範囲内に、不満を持つ人々を収めるために用意されたもの」

かもしれないからです。

 

 

・資本主義から社会主義

・資本主義から共産主義

社会主義から共産主義

共産主義から社会主義

社会主義から資本主義

共産主義から資本主義

 ………

どのようなパターンも起き得ることでしょう。

 

しかし 

実は

そこで何が行われたとしても、

どのような経緯で、どのシステムに辿り着いたとしても、

本当に変えるべきもの(概念、存在、ものの見方)に対しては、まったく影響を与えることがない、としたら ──── 

 

その形は

例えて言うなら

闘牛(牛対牛)もしくは闘犬なのかもしれません。

 

「はい、見合って見合って はっけよい のこった!」

 

柵の中で闘わされます。

 

その

柵の中で闘わされているのが

「資本主義」であり「共産主義」であり「社会主義」です。

 

牛と牛、犬と犬同士が

真剣に相手を倒そうと力の限りを尽くします。

 

そんな中、

柵の外では

柵中の喧噪とは無関係に

静かで優雅な時を過ごすのです ──── 

 

負けた方の牛(犬)は悲惨です。

ケガはもちろん精神的なダメージも大きいことでしょう。

それをケアするため、飼い主(調教師)のエネルギー(労力、時間、お金)も より掛かることになるでしょう。

 

また、

賭けが成立しないほど人気が偏った試合において、大逆転の高配当が発生することもあるでしょう。

「鉄板」と呼ばれるような「かたい(硬い=堅い)」試合に賭けることにより、配当は小さいものの、確実に勝ちにいったはずのギャンブラーたちが大損し、怒り、嘆き、悲しむことでしょう。

 

しかし……

その試合がどのような結果を迎えたとしても

その外側にいる存在 ──── 牛や犬でないのはもちろん、それらを育てもしなければ、賭け自体にも参加しないもの (賭場だけ用意する存在) ──── にとってはどうでもよいことで、何の影響も受けないのです。

 

なぜなら

最初から

そうなるように

準備万端、用意されていた「出来レース」だからです。

 

 

「資本主義」というものがあります

それに不満なら「共産主義」というものがあります

それも違うというなら「社会主義」はどうですか?

 

あなたが、そして社会が

どれを選択したとしても、私はいっこうにかまわないのです ──── 

 

 

………

このように……

 

ある存在によって

元々世界はそのように準備されていたから

資本主義と共産主義社会主義)といった形でしか語られてこなかった

 (……のかもしれない)

のです。

 

 

はい。

 

絶妙なる香ばしさを放ちつつ笑←

第3章はここまでとなります。

 

第4章では

第2章と第3章の内容を受けて、

 

その存在(とてつもない力を持つもの)は

なぜ 資本主義と共産主義社会主義)という、まったく異なる概念において、どちらが選択されてもかまわない、というような状態にいられるのか?

 

といったことについて考えてみたいと思います。

 

 

…………………………………………………

第4章 資本主義と共産主義という真逆のシステムが、あるひとつの存在によって用意されたものだとして、なぜ「どちらが選ばれてもよい」と静観していられるのか?

…………………………………………………

 

第2章と第3章をまとめて、

 

世界が「資本主義」と「共産主義社会主義)」のみでしか語られないのは、それ以外の形を生み出されては困るからであり、だからこそ「資本主義と共産主義社会主義しか選択肢がない」ように見える必要がある。

 

世界の誰もが、熱烈 あるいは消極的肯定のうちに、それぞれのシステムのうちのどれかに属するように形作られている。

 

さらなる理想の現実化のため、各々のシステムの信奉者たちが闘い合う。

 

その結果、それぞれのシステムが入り組んだ形の世界が生じるが、それがどのような形であっても「ある存在」にとってはどうでもよいことである。なぜなら、いずれのシステムも「ある存在」によって用意されたものだから ──── 

 

 

………といったようなことが

仮に本当のことだったとします。 ←

 

それでは

なぜ、

その「何らかのとてつもない力を持つもの」は

真逆ともいえる「資本主義」と「共産主義」、

どちらが選択されてもかまわないでいられるのでしょう?

 

もし、その存在(力を持つもの)に好みがあるとすれば

「資本主義が優勢になるように」とか

共産主義が漸次拡大していくように」とかの意思が生じ

どちらが選択されてもよい、とはならないはずです。

 

本当に

「どちらが選択されてもかまわない」ということであるとするなら、

それら(資本主義、共産主義社会主義)のすべてに「共通している何か」が存在していて、それが根幹にあって作用しているうちは、どのシステムが選択されたとしてもかまわない

ということなのかもしれません。

 

それぞれのシステムの信奉者たちは、互いに反発し合うけれども、実はそれらの根幹には「何らかの同じもの」が存在していて、それが機能しているうちは、どのシステムが採用されたとしても、同じような社会の仕組みを築ける ──── のです。

 

そして

人々は自分の望むシステムを守り維持し拡大しようと闘い合いながら、その本質が何であるかに気付けず、いつまでたっても終わらない争いの中で、いつまでたってもその本質に気付けないまま一生を終わらせていくのです。

 

あの闘いは無駄ではなかった……

生涯を奉じた闘いであった……

 

などと回想しつつ。

 

 

しかし 

本当に闘うべきなのは、その相手ではなかった ──── のかもしれないのです。

 

 

………ということで

 

それら(資本主義、共産主義社会主義)に「共通しているもの」とはいったい何なのでしょうか?

 

それがわかれば、その「てとつもない力を持つもの」がいったい何を重要視しているかが見えてくるはずです。

 

そして

その「重要視しているもの」ではない

何か「別のもの」がメインとなるようなシステムを構築することによって、

その「とてつもない力を持つもの」 ──── これまでの世界を支配してきたもの ──── の「力の源」自体を葬ることができるのです。

 

 

ここで……

改めて、資本主義と共産主義を捉えなおしてみることにします。

 

より理解を助けるために簡潔に表そうとすると……

 

資本主義は「お金儲け」を目的とし、そのために すべての価値をお金に換算して把握しようとする。 そのことはつまり、すべての価値を「お金」=「モノ(物質)としての指数」にして表す、ということである。

 

共産主義は「観念」ではなく「モノ(物質)」によってすべてが規定される(唯物論)と捉えるものである。

 

……ということになります。

 

このことから

 

資本主義も共産主義

人を「物質に限定される価値観」の中に置くシステムである

 

ということが言えます。

 

資本主義も共産主義

物質界=3次元に特化された

システムだと言えるのです。

 

「物質だけでなく、形而上的な物事も対象となり得るのでは?」

(特に資本主義において)

と感じる人もいることでしょう。

 

もちろんその通りなのですが

資本主義においてはそのシステム上、

形而上的な存在さえも

それを取り扱うさまざまな機会において

例外なく「お金に換算しようとする」力が働くことによって

それが「物質的なものとして捉えられる」こととなるのです。

 

……以上のことにより

 

これまで世界を支配してきた存在は

【人々が物質的な世界にのみ とどまり、そこから出ないよう】管理するため、

対象が物質界のみに向けられた「資本主義と共産主義社会主義)」を用意してきた

と言えるのです。

 

 

このことはつまり

 

人や社会が

資本主義を選ぼうが、

共産主義を選ぼうが、

社会主義を選ぼうが、

そのどれもが

物質界のみを対象とするように創られているために、

人はその中にいる限り

物質しか目に映らないように限定された状態に置かれる

ということを意味しています。

 

人はそこに置かれると

その外側にある「非物質的事象」を感知しにくく(できなく)なり、

「物質以外によってもたらされる何か」

を享受することができなくなるのです。

 

物質以外によってもたらされる何か、とは

そのまま「形而上的な何か」であり、

それは本来「宗教」や「スピリチュアル」といった概念を通して到達されるようなものなのかもしれません。

 

 

そこ(資本主義、共産主義社会主義)においては

形而上的にもたらされる利益(福音的なもの)を得られないだけでなく、

そういったものがあることにさえ気づけない状態に置かれる

のです。

 

さらには

そういったもの(形而上的な何か、それによってもたらされる利益)を探すことや気付こうとする行為自体が「非現実的な おかしな行為」として認定されかねない危険性があるといえるでしょう。

 

 

………ということで

以上の

第4章で展開されたことをまとめると

 

これまで世界を支配してきた存在は

人に「形而上的何かが存在していて、それを知り、それと向き合うことによってのみ得られる利益」があることを気付かれないように、

物質界のみの利益を対象とした「資本主義や共産主義社会主義)」を用意した。

 

ということになります。

 

 

…………

いや、それはおかしい

 

資本主義にも共産主義社会主義)にも宗教や哲学といった概念や学問があり、

そこにおいて「形而上的な何か」の存在や、「それによってもたらされる利益」がじゅうぶんに考察され説かれている

 

よって

「そういったものがあるということに気付かれないように、物質界のみを対象としたシステム(資本主義・共産主義社会主義)だけを作った」

という命題は完全に否定されるはずである

 

 

………

それに対する答えは

第5章に譲ることにします。

 

 

…………………………………………………

第5章  資本主義や共産主義における「宗教」とはどんな存在なのか?

…………………………………………………

 

ここで、資本主義と共産主義の「ピラミッド」について考えてみます。

 

ここでいうピラミッドとは、各カテゴリにおける頂点や底辺がどのようなものによって構成されているのか、その序列や配置を把握しやすくする形、ということになります。 

 

例えば

資本主義のピラミッドなら、その頂点に「お金」が来ます。

共産主義のピラミッドなら、その頂点に「共産主義というシステム」が来ます。

 

それぞれのシステムのピラミッドの中に

「企業」や「大学」、その他 さまざまなカテゴリが属するわけですが、 

各カテゴリの頂点に来るのは

「そのシステムの在り方に最も適合した組織や人」

ということになります。

 

よって

資本主義においては「お金を持つ存在」が

共産主義においては「共産主義というシステムに最も都合のよい存在」が

各々のピラミッドの頂点に位置することになります。

 

 

ここで……

「宗教」というカテゴリを見てみることにします。

 

上記のことにより、

資本主義における「宗教」の頂点に来るのは「お金を持った(集めることのできる)宗教」ということになります。

 

共産主義における「宗教」の頂点に来るのは「共産主義というシステムに最も合致した宗教」ということになります。

 

 

よって

 

資本主義においてピラミッドの頂点に近づける宗教は

「宗教的価値がある存在」よりも

「お金を持っている存在」になり

 

共産主義においてピラミッドの頂点に近づける宗教は

「宗教的価値がある存在」よりも

共産主義というシステムに最も合致した存在」になるのです。

 

…………

このことは

あるひとつの問題を浮かび上がらせます。

 

それは

「資本主義や共産主義といったシステムの中で、最も目立つような場所に位置する宗教とは、それぞれのシステムに最も適合している存在であって、そのことが何よりも(宗教的意義よりも)第一義となる」

ということです。

 

 

社会や経済を司るシステム以外のところで

人々を救済することによってその存在感を示すはずのものが

実際はそうではなく

システムに対して より適合していることが、目立つ(存在感を示す)ために必要な条件だった ──── 

 

 

それぞれのシステムにおいて

宗教的ピラミッドの頂点付近にある宗教(団体)とは

そういったものであるのかもしれないのです。

 

しかも

そのような宗教が属しているのは

「物質界に人を限定するために創られた」

資本主義と共産主義社会主義)というシステムなのです。

 

よって

二重の意味で

人は

資本主義や共産主義社会主義)において目立つ(力を持つ)宗教によっては

形而上的何かがもたらす恒久的な幸せに到達できない

(かもしれない)

ということになるのです。

 

 

………… 

資本主義と共産主義社会主義)でしか語られない世界において

大きな力を持っている宗教という概念に対して

以上のようなことを書くのは得策ではなく

ためらわれることでもあるのですが、

オカルト、トンデモ、陰謀論、更新日(4月1日)等、

あらゆる力を借りることで

まとめることができました笑。

 

 

ただ……

今回のエントリにおいて

「真顔で語りつつ、冗談めかしても書いていること」は

本当に「冗談」のようなものなのでしょうか?

 

 

システム(資本主義や共産主義社会主義)によっても

その中で最も目立つ地位にある宗教団体によっても

恒久的な幸せ といったものに辿り(たどり)着くことはできない

 

 

このようなことが

本当に

あらかじめ用意されていた、

あるいは

あらかじめそうなると言及されていたものだったとしたら ──── 

 

 

…………………………………………………

第6章 預言されていたこと

…………………………………………………

 

信じられないような話かもしれませんが

 

この世界は

システム(資本主義、共産主義社会主義)によっても

宗教(それぞれのシステムで上位に位置するもの)によっても 

「永続的で揺るぎない幸せ」には辿り着けない

 

……といったことが

ずっと以前からその通りに言及されていたとすれば

あなたはどう感じますか?

 

もちろんその根拠となるものがあります。

 

「聖書」です。

 

 

聖書には「新約聖書」と「旧約聖書(タナハ、ヘブライ語聖書)」のふたつがありますが、旧約聖書はさらに「律法」「歴史書」「詩歌書」「預言書」のよっつに分類されるそうです。

 

「預言書」は全部で十七巻から成っているそうですが

ここでは

そのうちのひとつ、

三大預言書にも数えられる「イザヤ書」を取り上げてみることにします。

 

イザヤ書イザヤ書(口語訳) - Wikisourceより)

〈第2章からの抜粋〉

彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。

また彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手のわざを拝み、その指で作ったものを拝む。

こうして人はかがめられ、人々は低くされる。どうか彼らをおゆるしにならぬように。

〈7節、8節、9節〉

 

 〈第6章からの抜粋〉

主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」

〈9節、10節〉

(以上引用終わり)

 

イザヤ書

「どのような時(時代)に どこの場所について語ったことなのか」

「誰がどこの場所について語ったことなのか」

といったことが冒頭に書かれている部分があり、

それがまとめられた当時の地政学的な状況を踏まえて語られている、と見て取れます。

 

それを、現代の世界的な規模に当てはめて見る、というような行為は

本来の読み取り方とはちょっと違うのかもしれません。

 

また、

ここに挙げた部分も

今回のエントリに都合よく解釈できる部分を選んで並べただけのもので

実際はこの前後にもたくさんの描写があり、それらの全てを読まないと、そこで何が語られようとしているのかについて誤った印象を受けてしまうかもしれません。

 

ただ、

そこに描かれていることの根本的な部分は、時代や場所が違ったとしても変わらないことなのだと思われます。

 

それは

『主』こそ第一義である

ということです。

 

お金でも、システムでも、偶像でもなく、

「主」そのものが最上にくる形

 

それを目指しなさい

それ以外は禍(わざわい)で

どのようなものであっても「主」からもたらされるものには敵わない(かなわない)

 

といったようなことが

表現を変えながら

全編に渡って描かれているのです。

 

 

よって

「それ以外」からもたらされるもの ──── 

 

資本主義における「お金」からもたらされるもの

共産主義における「システム」からもたらされるもの

 

それらは(3次元的には)目立つけれども

恒久で普遍的な幸福に結び付くものではない

 

ということ、

さらには

 

「本当に大切なこと」から目を背けられた状態に置かれる

(資本主義と共産主義社会主義)によってしか語られない状況が生じる)

 

というようなことが、

「前もって語られていた」

ということになるのです。

 

 

そしてそれは

 

今回のエントリ(第2章~第5章)で導き出された推論と

まったく同じ答えに繋がる、ということから、

書かれた当時のみならず

現代においてまでも通じ、成り立っている「預言」そのものであると言えるのです。

 

 

ちなみに

イザヤ書の内容は

紀元前8世紀ころに実在していたと考えられている

預言者イザヤによるものだそうです。

イザヤ書 - Wikipediaより) 

 

それほど前の時代から

世界はそうなってしまうことが予告されていたのです。

 

そのことは

逆に言えば

「その預言が現実化したからこそ

 現代社会が今のような状況になっている」

ということなのかもしれません。

 

 

 …………

 

そのように、

ずっと以前に預言されていたことが実際に現実化されていたとして……

 

それでは

我々人類に救いはないのでしょうか?

 

 

…………………………………………………

第7章 さらに預言されていたこと

…………………………………………………

 

イザヤ書イザヤ書(口語訳) - Wikisourceより)

〈第9章からの抜粋〉

しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。

暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。

〈1節の一部、2節、3節〉

 

〈第11章からの抜粋〉

おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、

雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、

乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

〈6節、7節、8節、9節〉

 

〈第32章からの抜粋〉 

こうして、見る者の目は開かれ、聞く者の耳はよく聞き、

気短な者の心は悟る知識を得、どもりの舌はたやすく、あざやかに語ることができる。

愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。

〈3節~5節〉

 

〈第55章より抜粋〉

「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求め食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費やし、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

〈1節、2節〉

(以上引用終わり) 

 

ここに挙げた部分により

前出の第6章3節で閉じられた目や聴こえにくくされた耳が回復されることが、

さらには

本当に大事なことから目を背けられた状態に置かれていたものが、知識を得られるようになるということが、

示されています。

 

現時点の世界は

そのような状態になっていないことを考えると

それはこれから実現することなのでしょう。

 

………

ということで……

 

第6章、旧約聖書の預言において

「主」以外のもの(含む資本主義、共産主義)によっては、恒久的な幸せといったものに到達できない

といったことが示されていたことがわかりましたが、

 

この第7章で

その状態は回復され、真の幸せを得られるようになる

といったことも預言されていることがわかりました。

 

…………

身の回りを見渡すと

物質的には じゅうぶん過ぎるほど豊かな時代にいるわけですが

なんだか

個人はもちろん世界全体が

「本当の幸せ」といったものから ほど遠い場所にいるような気がしませんか?

 

それは

これまでの考察通りに、

また

預言通りに、

人類はまだ物質以外の「本当に大切な何か」を知らずにいるから

なのかもしれません。

 

 

…………………………………………………

第8章 まとめ

…………………………………………………

 

ここまで長々と

オカルト、トンデモ、陰謀論、こじつけ←等を駆使しながら書き連ねてきましたが、

要は

これから

「本当に大切なものとは何なのか」

「どうやってそれを知っていくのか」

といったようなことを探っていく、ということです。

 

第1章にも書きましたが

本当の意味でシステムを変えていくには

既存のシステムが勝手に瓦解していくような状況、

すなわち

「古いシステムによらずとも ハッピーになれるんだ」

ということに

みんなが気づけるようになればよいのだと思われます。

 

 

このことは

同じく第1章で触れた通り

ブログ開始当初からわかっていたことなのですが、

それについてはこれまで「書けなかった」のでした。

 

なぜ書けなかったのか?

 

それは

「書こうとしているものが何であるのか」

「どのように表現したらよいものなのか」

さっぱりわからない、見当もつかない、ものだったからです。

 

いや……

実際は

書こうと思えば書けたのかもしれません。

 

他のブログやホームページ、

セミナーの講師、

人に教えを施すような立場の人たち、等がしているように

 

「誰それはこう言っている」

「〇〇が言っていることは間違っている(正しい)」

「あの文献の内容はこういう意味である」

「聖書にはこう書かれている」←

 

といったような

他から引用したり、誰かを批評するような形で。

(注:すべて筆者も使っている表現です)←

 

しかし、

自分自身が「それ」を知らないまま語っても(まとめても)、読んだ人はもちろん、自分自身さえ納得させることのできるものは生まれない ──── 

そう感じて

書くことができなかったのです。

 

…………

これからそのことについて書いていくということは……

 

 

まだ、です。←

 

ただ

そのことについて書き始められる地点くらいには近づけたかも、ということで……

 

これから

さらにそのスタートラインに近づいていく、という作業を

ある意味

当てずっぽうで←

行っていくことになります。

(当てずっぽうなのは、それが正しいのか間違っているのか自身では判断できないため)

 

 そのようにして

「本当に大切な何か」に気付けるようになった時、

さらに、「与配主義」や「順番決定制度」といった新しいシステムの意味合いが増し、再びそれらを取り上げ、進化・深化させていく、ということになるのでしょう。

 

 

………

ということで

ここで

今後このブログで探っていこうとするもの、

「本当に大切な何か」について少し触れてみたいと思います。

 

 

「本当に大切な何か」とは

「他の何によっても影響されない揺るぎない幸せに繋がるもの」であり、

それは

突き詰めれば

「絶対的なもの、存在」ということになる。

 

 

本来、

そのようなものが何であるのか? といったようなことは

心理学や哲学、宗教、スピリチュアルといった分野で考察されてきたものだと思われます。

 

紀元前数千年前から現在、そして未来永劫に至るまで、

人類が探し続けるようなものでしょう。

 

「それを探そうとする行為」とは

「その答えを見つけ出そうとすること」に他ならず、

少し……どころではなく荷が重いような気がしないでもないのですが、

「揺るぎない幸せ」といったものに近づくためには

避けては通れない道なのです。

 

 

そして

最後に……

 

ひとつ大事なことを。

 

膨大な量でまとめられた今回のエントリですが

最終的に「本当に大切な何か」に近づくことができた際に

このエントリの内容自体が「足かせ」や「障壁」になり兼ねないので

出来れば一行も読まれない方がよいかと思われます。

 

 

 

えっ!?

 

 

(……全部読んじゃったょ……)

 

(こんだけ読ませてからそれかよ……)

 

(冒頭に書け!)

 

 

……これは冗談はんぶん、本当はんぶんです。←

 

というのは、

「揺るぎない幸せ」とは

良し悪しどのような状況下においても

それとは無関係に存在している幸せを感じとる、といった境地を指します。

 

ということは

このエントリに書かれていたことの全てが本当のことだったとしても

それとは無関係に幸せにならなければなりません。

 

仮に本当にこの世界に

人々を支配する闇の黒幕のような存在がいて

さまざまな趣向を凝らし

悪意をもって人々を貶めて(おとしめて)いたとしても、

それとは無関係に幸せになるのです。

 

ところが、

今回のエントリの内容を、過剰なまでに真面目に捉えてしまうと

「な、なんとしても黒幕を倒さなければ…………」といったことに執心してしまい、

「それとは無関係に幸せになる」

といった本来の目的から逸脱してしまうので

「読まない方がよいかも」ということになるのです。

 

 

しかし

また、

今回のエントリは

このように描かれ、表現されなければならなかったことも事実です。

 

というのは、

物質界(3次元世界、現象界)に属している人間は

感覚ごとその次元にどっぷり浸かっているため、

そこから脱しようと望むためには

その次元の中で理解できるような例えや表現を使わざるを得ないからです。

 

 

一般的な感覚で指す「自分」といったものではなく、

それを超えたところにある「もうひとつの自分」「本当の自分」といったものに達するためには、

これまででいう自分(自我、エゴ)自身が

「自分(自我、エゴ)を超えよう」という意識を持たなければならないので、

その自分(これまでの自分{自我、エゴ})を刺激するような形の表現が必要となるのです。

 

そのことにより

今回のエントリはこのように書かれたのでした。

 

 

はい。

 

………

 

長々と

読了お疲れさまでした。

 

一応補足しておきますが………

 

今回「旧約聖書(タナハ、ヘブライ語聖書)」から多くの引用をしましたが、キリスト教徒、というわけではありません。

 

たまたま訪れたサイトに「イザヤ書」の一文が載っていて、それが今回のエントリの内容に関連付けられそうに感じられたため、イザヤ書全体を読み、使えそうな部分をいくつかピックアップすることにしました。

 

聖典」とされているものとして、新旧の聖書を数回通読、他に仏典の一部とクルアーンコーラン)の一部、その他ヒンドゥーの神話や叙事詩をいくつか読んだことがあるのですが、それは単に「読んだ(目を通した)だけ」であり、そこに描かれているであろう本質を理解できたわけではありません。

したがって、今回の内容はもちろん、今後の引用においても「間違った受け取り方」から生じる「間違った形での言及」といったものがあるかもしれないことをお知らせしておきます。

 

また、

個人的な感想として、

基本的にはどのような宗教であっても、その根底に流れているものは同じなのではないのかな、と思っています。

 

一神と多神(および汎神)、神様と仏様、区別すればそのように見え、おおもとに近づけば、全てを超越して共通している何かが見えてくる、というような ────  

 

…………

ということで

 

読むのもそうだと思いますが

書くのもなかなか大変でした笑。

 

労力に見合った結果が伴うか(伝わるか)どうかはわかりませんが

これはこのようにして書かれなければならなかった、ということで。

 

今後、

どのようなことを

どのような形で

まとめていくのか

現時点では一切決めていないのですが

さまざまな表現(含むオカルト、トンデモ、エンターテイメント、陰謀論)を駆使し、

読む側はもちろん書く側も

「本当に大切な何か」

に近づいていけたら、 と思いつつ……

今回のエントリを終わりにします。