空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

「事象」と「個人の幸せ」の関係 ──── 社会全体が幸福であることの難しさ

 

例年、ブログ誕生日である4月1日は

質と量にこだわったエントリを投入してきましたが

今年は簡潔にいくことにしました。←

 

そこにあまりに力を注ぎ過ぎ

その後の更新がおろそかになっていたからです。

 

 

………

今回のエントリでは

認識の仕組みに関して

以前にも取り上げた「野球」における人々の反応を例にとって

考えてみることにします。

 

 

sfsingularity.hatenablog.com

 

このエントリでは

「誰もが納得する幸せといったものがあり得るのだろうか?」ということに関して

野球を例にとり考察しました。

 

設定は

プロ野球チームの「A」と「B」がある

・A対Bの直接対決最終戦で、勝った方がリーグ優勝となる

といったもので、

 

あらゆる人をこの試合を通して分類してみると

① Aを熱烈に応援する人

② Bを熱烈に応援する人

③ Aをそこそこ応援する人

④ Bをそこそこ応援する人

⑤ 野球は好きだがAB以外のチームを応援している人

⑥ 野球に関心がない人

⑦ 野球が嫌いな人

……のようになります。

 

 

試合結果は「1対0」でAチームの勝ち。

 

そこで起こる反応はそれぞれ

① 絶叫、大喜び、歓喜の涙

② 絶叫、憔悴、嘆きの涙

③ 良かった、嬉しい

④ 悔しい、ガッカリ

⑤ へぇ~

⑥ 興味なし

⑦ うざい

となります。

 

 

あるひとつの事象で

これだけの「反応の差」が現れるということ。

 

試合結果の内容が変わり

Bチームが勝った場合は

①と②の内容がそっくり入れ替わり、その他は変わらないということ。

 

結果自体は同じで

その試合が優勝を決するものでなく

リーグ戦序盤だった場合は

①も②も「切り替えて次に備える」くらいの反応になるということ。

 

 

以上のことをまとめると

たったひとつの事象しか起きていないのにも関わらず

それぞれの立場やそれが生じた時期によって

無限の感情が生み出される

ということになります。

 

 

このような時、

それでは

どのような立場をとれば

人は最も幸せになれるのだろうか?

といったことを探りがちになるのですが

ここではそれをしないこととします。

 

 

なぜなら

それこそ

それぞれの人の「個人的主観に基づいたもの」だからです。

 

 

仮に

「これこそが答えなのです!」といった明確な解答を示したとしても

その人がそれに納得しない場合

それは「その人にとっては誤答」となります。

 

 

ざざむしの佃煮こそが至高なのである」

あるいは

パクチー美味しい」

という認識を持つ人に、

何をもって

どのように説明・説得すればいいのか、ということになるのです。←

 

「痛くされるのが良い」

というような人も実際に(少なからず)いるのです。←

 

 

人の嗜好性や指向性に

正解を当てはめることはできない

ということになるのです。

 

 

 

たったひとつの事象に対して

100人いれば100通りの反応が生じる世界において、

無限の事象が起きている時

その社会全体が幸せを感じるような形や共通認識のようなものを作れるのでしょうか?

 

 

それは……

甚だ困難なことだと思われます。

 

 

ただ、

社会とは「個人の集合である」ことを考えれば

個人がより良くあれる時

その社会はより良いものになっているはずです。

 

 

ということで……

 

次回、

「個人が救われることの重要性」について考察していきます。