空想・科学・特異点 

Science Fiction Singularity

本当の幸せを得るためには 本当の自分を知らなければならない、ということ

 

今回のエントリは

約7ヵ月前の記事

「自分」が救われる時、ほんの少し「世界」が救われるのではないか、ということ

の直接的な続きとなるものです。

 

そこでは

・普段感じている「自分」と「本当の自分」との違いとは何か?

・私たちは「自分」というものが何を指しているのか実はよくわかっていないのではないか?

といったことがまとめられたわけですが

今回はその部分を紐解いていくことにします。

 

ただ

最初に断っておきますが

・今の自分に満足している人

・現在の社会システムの範疇で勝負したい人

・現存の社会通念に従って将来設計している人

・目に映るもの、感じられるもの以外信じない人

等に該当する方々は

ここから先の内容を読まないでください。

 

 

唐突過ぎて面食らうかと思われますが笑、

内容上

「自分」の概念が揺らぐ可能性があるので、

「これまでの自分」上で、これまで通り活動したい

と思っている人に影響を与えることがないよう、このような注釈を付けました。

 

記事自体が長くなりそうなのと

内容が多岐に渡るであろうことから

章立て形式でまとめていきます。

 

 

今回のエントリ内容は

触れようとしている対象が非常に微妙であるということ

さらには

もともと物理的にも感覚的にも触れづらい(五感で感知できない)ものであるということから

それを上手く表現できるかわからないし

仮にできたとしてもあまりに難解で読み手に伝わらないようなモノゴトかもしれない、ということをあらかじめ表明しておきます。

 

 

そもそも

「本当の自分とは何か?」

というような命題は

スピリチュアルや宗教で言うところの

「答えそのもの」的な部分が少なからずあるだろうことを考えると、

もの凄く取り扱いの難しい分野だと言えるでしょう。

(仮にそれを十全に伝えることができたら「全宗教を超える」ということになってしまう←)

 

 

そこで

「本当の自分とは?」ということに取り掛かる前に

まず

「なぜ本当の自分を知る必要があるのか?」

というところから考えていくことにします。

 

 

 

第一章 なぜ本当の自分を知る必要があるのか?

 

……これは

ある種の非常に限定された個人的見解なのですが

「目に付くところに出てくる人たちが幸せそうに見えない問題」

が存在していると思っています。

 

社会全体のハッピー感を増すためには

個々のハッピーが増すことが必要だと考えられるのですが、

社会の代表としてメディアに取り上げられるような目立つ個人たちが

みな一様にアンハッピーな状態である(ように見える)場合、

まず

その原因が何であるのか?

を特定する必要があります。

 

 

ここでいう

「目に付くところ」というのは

テレビや新聞を始めとしたマスコミを指しており、

 

この目立つ場所に登場してくる人たち ──── 

政治で言えば「与党や野党の国会議員たち」が

テレビそのもので言えば「アナウンサーやコメンテーターたち」が

経済界で言えば「大企業の経営者や資産家たち」が

ことごとく不幸せそうな雰囲気を醸し(かもし)出している(ように感じる)のです。

(筆者自身はテレビをほぼ視聴しないので、ネットニュースに出てくるテレビ画面等の様子を通じて、ということになります)

 

もちろん

番組の内容によっては

動物やらお笑いやらによって楽しい時間が提供されることもあるのでしょうが、

政治や経済、その他社会問題といった時事的な内容を扱うような番組においては

そこに登場する人々が

「自分と敵対する存在を完膚なきまで叩きのめしたいぃっ」

といったようなニュアンスを

その言動や表情の端々に漂わせ、

その恨みつらみのようなものが

テレビを通して(さらにはネットニュース等を通して)

世界にまき散らされている、ように感じるのです。

 

 

政治家にしてもビジネスパーソンにしても資産家にしても

社会に何らかの不平や不満を持っていて

それを公けにしたいという場合、

その人は「幸せな状態」とは程遠い所にいるということとなり、

そのような人々が目立つ場所に出てきて苦言を呈す、ということ自体が

この世界をよりアンハッピーな状態に近づけている、ということにならないでしょうか?

(その発言内容がたとえ国や企業のためを思ってのことだったとしても)

 

 

国会議員や大企業の経営者など

「社会的大成功を収めたはずの立場の人」が

ハッピーになれなくて

不平不満をまき散らしている ──── 

 

 

この事実は

何か「もの凄く重要なこと」を示唆している

のではないでしょうか?

 

 

一般的に見たら成功者で幸せそうに思える人

だったとしても

当の本人はアンハッピー

 

その状態は何によってもたらされているのか?

 

それを見い出すことは

当事者のみならず

私たち自身にとっても

見過ごすことのできないこととなるはずです。

 

 

 

そこで…………

 

まず

その人たち(政治家、ビジネスパーソン兼資産家)は

何を求めて何のためにそのような立場になろうとしたのか?

というところから考えてみることにします。

 

理解しやすいよう

想像上のシチュエーションを例に挙げてみます。

 

例1)

某国会議員は学生時代

「国のこの制度はおかしい! 僕(私)が議員になってそれを変えよう!」

と感じ国会議員を目指した。

 

例2)

ビジネスパーソン兼資産家は子供時代

「うぅ……おなかがへった……けど食べるものがない……俺は起業して大金持ちとなり好きな物を好きな時 好きなだけ食べられるようになるんだっ!」

といった経験をし、そのように誓ったのでした。

 

 

………ありきたり感満載なのですが←

仮にそのような経緯があったとして

無事その立場になれて、当時の想いを叶えられたのにもかかわらず

何か他の不満を抱え始めイラつき それを解消しようと躍起になる ──── 

 

 

このことは

一般的、あるいはスピリチュアルや宗教的に

「際限なき欲望」などと称され

それを如何に抑えるか、が重要視されるわけですが、

これまでの人類史を長々と見るにつけ

それ(欲)を直接的に抑えつけることは甚だ困難である、

ということは明らかだと言えるでしょう。

 

 

よって

このブログでは

そちら側(欲望を抑える)からのアプローチではなく

まったく別の角度から

この問題に向き合うことにします。

 

 

前述の例から

「国会議員になれば制度が変えられる」と思い、そうなった

「お金持ちになれば望みが叶う」と思い、そうなった

のにもかかわらず「幸せにはなれなかった」………

ということが示しているのは ──── 

 

 

………実は………

そう思ったもの(感覚の主体)が

本当の意味における自分ではなかった

としたらどうでしょう?

 

 

(このことは想像以上に人類にとって難解かつショッキングな意味合いを持つので、慎重に何度も吟味してみてください)

 

 

(国の制度がおかしい……ということは国会議員になってその制度を変えればよい)

(お金持ちになればおなかいっぱい食べられて幸せになれる)

 

そう「感じた自分」はそれを叶えるための行動を起こし、実際にそうなった

けれども

今も幸せとは程遠い場所に居続けている ──── 

 

 

………ということは………

 

そう「感じた自分」は実は本当の「自分」ではなくて

そう「囁くもの(ささやくもの)」が言っていたことに過ぎなかった ────

ということにならないでしょうか?

 

 

そう囁くもの………

話は一気にオカルト……というかホラーめいて来るのですが笑

もう少し砕いて言うと

 

「肉体と心」の想うことが

「本当の自分」の存在性とは違う代物であったとしたら、

願ったことが叶ったのに幸せになれない

という不可思議な現象の説明がつくのではないのか?

ということになるのです。

 

 

さらに

わかりやすく表現すると

「本当の自分」が望むモノと「肉体と心」が望むモノは異なっており

「肉体と心」が望むモノをどれだけ手に入れたとしても

「本当の自分」が望むモノ・形を手に入れない(知らない)とハッピーにはなれない

ということになります。

 

 

だから、なのです。

 

 

だから

「本当の自分とは何か?」

を知ることが重要になるのでは?

ということになるのです。

 

 

……というわけで

ここまでが

本題に入る前の「前置き」となります。

(長い上に難解しかもこの前提自体が間違っている可能性もあるので要注意←)

 

 

 

第二章 私たちは自分のことをまったく知らない、という事実

 

「でも、自分は自分だし」

「自分のことは自分が一番よく知っているのでそのような物の見方をする必要はありません」

 

確かにそうかもしれません。

しかしながら ──── 

 

「あなた自身の容姿を端的に説明してみてください」

 

と言われて答える時

私たちはどのように説明するでしょうか。

 

背の高さやスタイル、

髪の色や髪型、

顔のパーツや体における特徴的な部分……

 

など

いろいろと話すことでしょう。

 

しかし

それは

何の説明なのでしょうか?

 

 

それを

私たちは「自分の姿」として語ります。

 

だけれども

よくよく考えてみると……

私たちは「自分そのもの」を「見た」ことがあるでしょうか?

 

私たちが見知っている(と思っている)

「私自身の姿」の説明として語るそれは

鏡や写真、動画等を通して見た「私」であって

「私自身の姿」ではありません。

(手や足など一部は直視できる部分もある)

 

「私の見た目」について自ら語るそれは

鏡に映っているものを見て捉えた「像」の説明であって

自分の眼によって直接見られた「自分の姿」ではないのです。

 

 

私たちは

「他の人」を見ることはできるけれども

「自分自身」を見ることは物理的に不可能です。

 

 

このことは

誰も自分自身の姿を直接見たことがない(見ることができない)のに

さも「見た」かのように語る

ということを意味しています。

 

 

写真や動画など

映像を撮ってそれを詳細にチェックしてみたことがある人はわかると思いますが

どれだけ高価な機材を用いて撮影し

どれだけ高価なモニターでその映像を確認しても

現物を直接見た光景にはまったく及びません。

(美しさはもちろんそれ以外の概念、リアルさ等含め)

 

これは

「見る私」と「見られる対象物」の間に

カメラの撮像センサーやデータのストレージ、モニターの液晶等

いくつかの間接的な映像化装置が介在しているということ、

それらのさらなる高精度化に技術的な障壁が存在しているということ、

実物は立体であるものを「平面」に置き換えざるを得ないこと、などによって生じる

「現物に対する像の限界

ということなのかもしれません。

 

 

これらのことは

像を知った(見た)としても

実物を知った(見た)ことにはならない

ということを意味しているのではないでしょうか?

 

 

そして………

 

物理的に存在する「姿・形」でさえそうである時、

「心」はどのように捉えられるのでしょう?

 

 

自分の姿

自分の心

 

普段から

なんとなく(漠然と)それを観じているけれども

 

どこからどこまで

どのようなものが

「自分」として捉えられるのか

 

そして

果たしてそれは

本当に「自分自身」と言ってよいものであるのか……

 

どのように

判断したらよいのでしょう?

 

 

 

第三章 自分を見る方法はないのだろうか?

 

自分の眼で直接自分の体を確認しようとする時

一般的に見える範囲は

顔以外の体の前面と手足の裏面程度……ということになるでしょうか。

 

一般的に、という注釈が付くのは

この世界には意外とマッドな人がいて←

「視神経を繋げたまま左目を取り出しクルっと反転させれば自分の眼で直接自分の顔を……」

などと言い出す人がいないとも限らないから、です笑。

 

ただし

そのように難儀して見た「自分自身」も

「左目を取り出し反転させつつ見ている自分の姿」というものであって

「本来の自分」ではなく、

また

そこまでやったとしても

やはり「左目自体は見れない」のです。

(右目で左目を見ることはできるがそれは普段の私から離れて反転してこちら側を見ている左目に過ぎない←)

 

 

 

この「自分を見れない問題」は

なにも「人間の限界」などというものではなく

三次元(もしくはそれ以外の次元を含む)という場における「物理的な制約」ということになるのかもしれません。

 

というのは

人体のみならず

カメラなど「何かを撮影する機材」においても

何か(周りの風景等)は写せるけれども

その「カメラ自身」は写せない、という現象が見られるからです。

(人間もカメラもその「外側」に向かってセンサーが取り付けられていることによる)

 

 

………ということで

 

さらに

「三次元」という世界の特性を考察していきたいのですが

その前に

もう少し捉えやすいものとして

「二次元」を参照してみることにします。

 

 

 

第四章 二次元キャラクターは混乱しているのではないか、ということ

 

二次元と言うことで

ここでは「平面」を取り上げます。

 

さらにわかりやすいよう

「紙面に描かれた漫画」を例に考察していくことにします。

 

紙には表面に対して裏面(奥行き)があることから

厳密な意味においては二次元(平面)に当たらないのですが

イメージとして捉えやすいことを考慮し、そのまま取り扱うこととします。

 

 

ひとくちに漫画と言っても

スポーツもの、恋愛もの、冒険もの、ホラーもの等

様々なジャンルがあるわけですが

ここでは

「魔王に誘拐されたお姫様を助ける主人公の冒険」

を題材とした漫画を例にします。

 

初めのページにはどのようなシーンが来ればいいのか少し悩むのですが……←

 

コマ的には

・王宮の一室に居るお姫様

・突如現れる魔王

・お姫様の悲鳴に駆けつける衛視(えいし)。しかしお姫様は連れ去られてしまう

・困った王様

・召使(めしつかい)が街外れに剣の達人(主人公)がいるらしいと王様に伝える

・主人公が王宮に呼ばれお姫様の奪還を依頼される

・旅立つ主人公

といった感じで描かれていき、様々な展開の後

・魔王の宮殿でお姫様を発見

・魔王と対決………

といった具合になることとします。

 

 

ここで……

この漫画のキャラクターたちは

二次元世界の中で実際に生きていて意識を持った存在であると仮定してみます。←

 

そのような場合

その世界に住むキャラクターたちは

その世界がいったいどのように見えているのだろうか?

といったことを考えてみることにします。

 

 

平面に描かれたキャラクターが

同じ平面上に存在している対象物を眺める時………

 

相手は奥行きのない「点」もしくは「線」にしか見えない、ということになります。

 

 

……このことを

三次元的にわかりやすく表すと

今この文章を画面越しに読んでいる(眺めている)読者目線で

(≧▽≦) ←この顔文字で表される形が

奥行きのない「画面という平面上」世界しかない場所での見え方は

    |        ←こうなります。

(奥行きがないため顔文字を「真横から見た」ような感覚。顔文字の意味をなさなくなる)

 

 

王様も線

お姫様も線

魔王も線

でしか見えません。

 

このことを

主人公目線で見ると

王様、お姫様、魔王はもちろん

食べ物や剣といったあらゆるもの全てが「線」としてしか受け取れない世界で

線相手に物語を進めるしかない、

ということになります。

 

 

見るもの全てが「線」の世界においては

見た目で把握できることはほとんどない、と言っていいでしょう。

 

そのような世界においては

「物語の展開(ストーリー)」によって

様々なことを推測するほかなく、

 

主人公の感覚としては

 

王様はみんなからエラそうな扱いを受けているイメージ……

お姫様はその言動から「か弱そうな印象」……

魔王はなんだかおっかない感じがする……

 

全部「線」でしか見えないから

直接的な感覚ではなくて

漠然としか感じられないんだけど

たぶんそんな感じなはず…………

 

といったことになるでしょう。

 

 

三次元における「物体(見た目)の印象」といったものが

存在しない世界(二次元)において

線からそれを感じ取らなければならない ──── 

可愛さや怖さ、美味そうさ といったあらゆる感覚においてまで……

 

 

主人公のみならず

そこで暮らす人々の困惑具合が推し量れることでしょう。

 

 

………そのような世界の中で………

 

主人公が戸惑わずにいられるためにはどのようにしたら良いのでしょうか?

 

 

答えはひとつです。

 

その次元(平面)から抜け出し

私たちと同じように三次元的な視点で

二次元に描かれた描写を眺めるのです。

 

 

そのようなものとして

実際に存在しているのが「飛び出す絵本」となります。

 

飛び出す絵本は

ページを開くと

折りたたまれていた紙片が立体的に浮かび上がって来て

そこに描かれたものが紙面から目の前に飛び出してくる、

といったような仕掛けがなされたものです。

 

 

主人公は

その飛び出す紙片に描かれて

紙面という平面から抜け出し、

振り返って元の世界を眺めて初めて

そこに描かれていたものがどのようなものであったかを知ることとなります。

 

「王様……意外と貧相だな笑」

「おぉ~ お姫様こんな可愛かったの?」

「えっ……ちょ待っ 魔王デカッ! え~~ これと闘うの……」

 

といった

新たな感覚が巻き起こることとなるのです笑。

 

 

……………

そして…………

 

 

ここまで……

 

長々と

ある種トンデモな世界観を展開し続けてきたわけですが…… ←

 

……………

 

 

 

……いうことは?

 

となるのです。

 

 

 

実は

三次元も同じようなことになっているのでは?

といった疑惑が浮かび上がってくることとなるのです。

 

 

二次元においては

そこに住むキャラクターたちが

その世界観をほぼ理解できないのと同様に、

三次元においても

そこに住むキャラクターたち(私たち)は

その世界がどのようになっているのかを理解できないのでは?

(理解できない構造になっているのでは?)

 

ということになるのです。

 

 

 

第五章 三次元が 「三次元内においては把握できない世界」だとしたら

 

霊長類として

様々な現象を把握し

それがどのようなものであるのかを突き止め

その意味を理解し活用する。

 

それらの事柄によって

人間社会はリアルな発展を遂げてきたわけですが、

実際は

二次元キャラの例と同様、

根本的に

三次元に属するものは三次元のことを正確に知ることができない

というような構造になっていたとしたら

どうでしょう?

 

 

現在、地球上には様々な種類の問題が存在していて

それを解決するために

日々、あれこれ論争しつつも

理性や知性を集結させようとしています。

 

しかし……

そもそも

三次元に属するものは三次元のことを知ることができないという特性によって

何が問題であるのかすら構造的に理解することができない、ということだとしたら

どれだけ時間や労力を掛けて

どれだけ意見を交えたとしても

何の解決にも辿り着けない、ということになります。

(むしろさらなる問題を産み出す可能性もある)

 

 

私たちは当然のように

<現実を把握し理性的に物事を捉え、様々な物事に対処している>

と思い込んでいます。

 

政治、経済、家庭、仕事、災害……等々

様々な問題が存在している中においても

現状より良い状態を自らや社会にもたらすべく日々努力しています。

 

そのことにより

目に見える範囲(部分的)にはその対処が成功することもあって

その延長線上で全ての物事に対応しようとするのですが、

実際は

三次元を正確には把握できない、という三次元の特性により

この世界の根本的な問題に対しては一切効果的な対応をとれない、

ということになっているのかもしれないのです。

 

 

 

………

いや

確かに荒唐無稽な話ではあります。←

 

普通に

トンデモ論として扱われるのが妥当な仮説なのです、が……

 

実際に

ニュース等で報道される複数の(少なからぬ)「奇妙な出来事」を確認するにつれ、

いや……

もしかしたら

この仮説もあながち全否定されるようなものではないのかもしれない……

といった想いが湧き上がってくることもまた事実です。

 

この

「奇妙な出来事」とは

事件や事故、災害、さらには政治、経済、芸能など

あらゆる分野において見られる

なにをどうしたらそうなるのか?

何を望んで何をしたらそういう結果になるのか?

といった

背景がまったく理解できないような出来事を指します。

 

 

具体例を挙げると怒られるかもしれないのでここでは挙げませんが←

理性や常識といったものによっては理解し得ないような出来事が

日々頻繁に起こっているように感じます。

 

 

本来そういった問題というのは

時間の経過、歴史の積み重ねに従って

啓蒙や教育、知識や技術の共有化が為され

無くなっていくはずなのですが

人類史上、ずっと絶え間なく起こり続けているのです。

 

 

本当であれば

今現在抱えているような各種の問題 ──── 

経済の問題(インフレとデフレ、バブルとリセッション、貧困、格差)

政治の問題(政治とお金、紛争・戦争)

その他あらゆる分野における問題といったものは、

時間の経過と共に

それらを解決する英知が生み出され

徐々に解消していくはずです。

 

社会・経済の問題に限っては

このブログで提唱された「与配主義」によって

すべての問題が解決されることが導かれています。←

 

しかし

それが為されない。

解決されない。

 

 

これらのことは

この世界(三次元)には

人間には感知できない(捉えられない)何かが存在していて

それを感じ(観じ)ない限り前に進めない(のかもしれない)

と思わせるのにじゅうぶんな根拠になるのではないでしょうか。

 

 

 

しかしながら……

 

今回のエントリにわずかでも正当性があった場合、

それがゆえに

私たち(三次元キャラ)は

三次元本来の姿が感知できない

ということになり

何が問題でどうすればそれを解決できるのか?

といったこと自体、まったく知覚できないこととなるのです。

 

 

三次元においては

三次元がどのようなものであるのか知覚できないため

各種の問題は永遠に解決することがないとしたら ────

 

 

 

…………

何か良い方法はないのでしょうか?

 

 

 

第六章 三次元を正確に把握するには

 

ここで参考になるのは

やはり二次元です。

 

 

先述したように

 

二次元キャラは属している世界が平面であることにより

全てを線でしか捉えられず

そこで何が起こっているのか理解できない ──── 

けれども

飛び出す絵本の仕組みによって

その平面から抜け出し振り返って眺めることにより

初めて

そこに何が描かれていて

どのようなストーリーであったのかといったことを理解できる

 

ようになっています(予想)。

 

 

………ということは………

 

 

三次元でも同じことをすればよいのでは?

ということになるのです。

 

 

つまり

三次元から抜け出して

俯瞰した場所から

三次元を眺めてみるのです。←

 

この視点を持って初めて

三次元キャラ(私たち)は

三次元の本来の姿を知ることができるのです(予想)。

 

 

…………

……はい……

 

またまた出ましたオカルト・トンデモ・荒唐無稽話 ──── 

 

 

……と

 

簡単にこれを

片付けてよいのでしょうか?

 

 

三次元から抜け出す ──── 

 

それは

自分自身(だと思っているもの)から抜け出す、

ということも意味しています。

 

そのことは

宗教的に言うところの「解脱」

さらには

解脱と同意とされている「涅槃」「悟り」といった状態に至ることと同じ意味合いを持つ、のかもしれません。

 

 

以上のことを総合すると

三次元を正確に把握するためには

三次元を抜け出した視点が必要となり

それは「解脱」「涅槃」「悟り」等に至った状態と同義である

ということになります。

 

 

………

 

緒問題が解決しないわけです笑。

 

欲が行動原理となる人類にとって

それはとても困難なことだからです。

 

ただ

このエントリ以前の更新でも触れたように

結局人はそこ(ブッダ的境地)に至らないと

本当の幸せには辿り着けない

ということなのかもしれません。

 

 

現状を眺める限り

それを人々が本当に求めているのか?

ということに関しては少し疑問符が付くところではありますが ──── 

 

 

……というのは

仮に

それを求めている人が大勢いるのであれば

その需要に応えようと

「悟り」や「解脱」といったことに関して論じ合うような

大がかりな会合やイベント的なことが行われるはずなのに

そのようなものが行われたことは聞いたことがないからです。

 

仏教における各宗派や個別の寺院等においては

そのような機会が少なからず設けられていることと思われますが

宗教宗派を超えて人々が集い論じ合う、というような機会はほとんどないといっていいでしょう。

 

 

ヒンドゥー及びそれに関連する宗教とされるもの ──── 

ヒンドゥー、仏教、ジャイナ教等で言うところの

「解脱」「涅槃」「悟り」「不二一元」「梵我一如」等は

ほぼ同じことを指しているのではないのかな、と個人的に思っているのですが、

仮にキリスト教における「アセンション」といった概念が、

また「その他の宗教」における「その他の呼び方」の概念が、

さらには宗教に限らず定義される「何らかの呼び方」の概念が、

同じものであったとしたら

(※この部分の根拠はまったくありません。単なる印象です←)

宗教を超えて認識し合える境地がある、ということになるので

それについて論じ合うような機会が設けられるのは

狭い範囲にとどまらない影響を世界に与えるのではないか、

と考えられるのですがどうでしょう?

(さらなる軋轢を生むだけかもしれない ←)

 

 

もし

仮にそのような機会が設けられ

一定の成果(悟りや涅槃、アセンション等に関する共通した見解や それらを会得するための方法論的なものがまとめられる)が上げられたとしたら、

これまでの世界認識とは違った何かが生み出されていき

そのことによって

長年存在していた様々な問題が解決されていく、のかもしれません。

 

 

 

第八章 まとめ

 

……ということで

ここまで

 

本当の幸せを得る(知る)ためには、本当の自分を知らなければならないのではないか、ということ

 

本当の自分を知るために、まず二次元の特徴を見てみる、ということ

 

二次元の特徴から予想されることとして

三次元に属した存在は三次元を十全に観測できないのでは? ということ、

 

その三次元を正確に把握するためには

俯瞰した視点を得るために

「解脱」「涅槃」「悟り」といった状態に至らなければならないのでは? ということ、

 

宗教その他から得られる

三次元から「俯瞰した視点」によって

これまでには存在していなかった(気付かなかった)新しい世界認識が生み出され

それによって

世界の諸問題が解決していくのでは?

 

ということが

まとめられました(長い)。

 

 

まさに

オカルト・トンデモ・エンターテイメントな理論展開がなされてきたわけですが←

個人的には

もの凄く説得力のある内容になったのではないのかな、と思っています。←

 

 

 

今回のエントリは

前回までの更新とは決定的に違う部分(感覚的なこと)が存在していて

それを織り交ぜつつまとめた最初の更新となります。

 

そのことにより

・いつもより腑に落ちる

・なぜかはわからないが何度も読みたくなる

というようなことになっていたら……

と思いつつ

今回の更新を終わりにします。