ネット広告でたまに目にするのが
「1日〇〇〇円で―――が」
という寄付を募るものです。
痩せ細り涙目となっている子供の写真が使われていることが多く「なんとかしないと」と思わせます。
しかし、読もうと思って開いたページの内容とは、まったく無関係に表れるそういうショッキングな画像は、唐突かつ悲惨さを強調しているだけに、また別の複雑な心境も生み出します。
「ここで表示しなくても」
一瞥して、あるいは、認識すらせず捨て置かれるような広告が多い中で、耳目を集めることができるということは、その存在意義を完璧に満たすものなのでしょうが、それでもやはりページ内容と近しいような場合に限って表示されるべきなのではないのかな、と感じます。
以前、ネット上で行える寄付活動に(超がつくほど微力ながら)参加していたことがあるのですが、ふと考え直す瞬間がありました。
いつまで続ければ、その対象になる人は救われるのだろうか?
根本的な解決法を産み出さない限り、ずっと続いてしまうのではないでしょうか。
もし本気で飢餓や貧困をなくそうと決意するなら、寄付金を集め当座の問題を解決しつつも、それとは別に、問題を根本的に根絶するシステムを作り出さなければなりません。
24時間、福祉に関することを連続して放送することによって莫大な寄付金を集めるのも素晴らしいことではあるのですが、その継続回数を誇るのではなく、むしろそういう活動をしなくてもよい社会を創ることの方がもっと重要なのではないのかな、と感じています。
もちろん、言うだけではなくて、実際に「こうしてはどうか?」というものを提示できたらな、と思っています。
今回のブログ内容が寄付の話題になったので、次回も寄付のことについて考えてみます。